オペラは友達
鈴木敬治
No3 「パリは第二の故郷」
石油化学会社のパリの駐在事務所として初、三井石油化学工業のパリ駐在事務所も開所の実現までには多くの障害がありました。
フランス駐在事務所開設が決定してフランス語習得のため私がフランスに派遣されたところまでは順調でしたが、開所の正式決定が語学研修終了時にも決まらず、研修終了から2年以上たっての正式開所となりました。その間はデユッセルドルフに拠点を置きながらパリで週の大半をホテルで過ごしながら事務所の開設準備をする2年余の日々でした。そしてこのデユッセルドルフ勤務中に長男を授かることになりました。家内は産後体調が回復せず、看護のため1か月近くわたくしも休みをいただきました、家内には苦労をいきなりかけることになりました。
また2年余の間、事務所で種々の業務をお手伝いさせていただきながら、当時鉄のカーテンの向こう側であったベルリンや東欧諸国に先輩方とご一緒させていただいたことは得難い経験でした。当時東欧諸国への渡航は緊張の連続でした、パスポートコントロールではパスポートに一ドル札を挟んだり、パスポートの下に煙草を忍ばせて出したりしながらなんとか難癖をつけられずに入国する苦労もありました。食事も当時の東欧諸国では簡単に昼食を調達できないので、現地の三井物産の事務所で備蓄されている貴重な食材でお昼をごちそうしていただいたりしました。
そのような環境の中でも東欧訪問の中、チェコスロバキア共和国(その後チェコ共和国、スロバキア共和国に1993年に分裂しました)では驚くことにオペラを夜、楽しむことができました。曲目はプッチーニ作曲ラ・ボエーム。なんとこの演目に当時事務所のあるデユッセルドルフの劇場に出演していた木村利光氏がマルチェッロ役で出演しておられました。ちなみにマルチェッロは氏の当たり役です。
記録をたどってみたころ日付は1983年9月30日 プラハのスメタナ劇場(現在のプラハ国立劇場)でした。公演後木村氏と何とか営業している店を探して貴重なビールを飲み交わしたのも思い出です。木村氏はその後デユッセルドルフ歌劇場との終身契約を東洋人として初めて結ぶなど大いに活躍されて帰国し、多くのオペラに出演され後進の指導にも尽力されました。この当時はわたくしも同じ世界の片隅にいずれ入るとは思ってもいませんでした。
プッチーニ作曲 ラ・ボエームはパリが舞台の貧しい若者4人組、詩人のロドルフォ(テノール)、画家のマルチェッロ(バリトン)、音楽家ショナール(バリトン)、哲学者のコリーネ(バス)の生活を描いた物語、です。ロドルフォとお針子のミミ(ソプラノ)との愛と別れ、マルチェッロとムゼッタ(ソプラノ)の恋の物語そして4人組の友情を描いています。1924年大正13年に亡くなったプッチーニの音楽はクラシックというより、モダンな感じが強い音楽です。歌い手にとっては音がとりにくく、歌うのが難しい部類のオペラではないでしょうか。
オペラの人物はそれぞれその役割にピッタリの声部に割り振られて描かれるわけです。おもに主役はもちろん張りがあって高音で聞いて心地よいテノールやソプラノが担います。いわゆるタイトルロールです。私の声部 バスは最低音部を担うものです。声の性質上、役どころは父親役、裁判長、王様、殺し屋というところが多いです。いわゆる脇役で主役となることはまずありません。
このオペラのショナール役は哲学者で落ち着いた雰囲気を求めてこの声部を担ったものと思われます。コリーネはオペラの最後の場面で、ミミが肺炎で亡くなる寸前、薬や栄養をつける食べ物を調達するため唯一の財産といえる一枚しかないコートを売って金を工面しようとし、「Vecchia zimarra 古き外套よ」とアリアを歌います。私も歌ったことのあるバス歌手向けの数少ないアリアの中の名曲です。
皆さんもいつか機会があったら聞いてみてください。学生時代に訪れたパリ、滞在したサンジェルマンの安宿を懐かしく思い出した物でした。
添付は当時の ラボエームのプログラムです

