オペラは友達
鈴木敬治
No2 「フランスに誘(いざな)われて」
会社での最初の赴任先は岩国大竹工場でしたが、この間会社の混声合唱団のお手伝いだけでオペラとのお付き合いはなかったのですが、多くの大竹の合唱団と合唱連合を組織して第九の演奏会をやろうと奔走し、やっとのことで組織を作ったところで、フランス駐在が決定してやむなく後を託してフランスに旅立ちました。実はこの岩国大竹時代に結婚しましたが当初フランス語就業生としてナント、グルノーブルなどの都市で1年間のフランス語研修をさせていただきました。
先に述べました第九とともに実はフランスも私の人生のキーワードです。アダモの「雪は降る」やシャンソンの愛の賛歌等にあこがれ、高校時代からフランス語の歌をギターで歌ったりしていましたが、当時フランスはただただ遠く、あこがれるだけのものでした。
大学時代仙台の白百合学園のシスターにフランス語の指導を仰いでいましたが、シスターの美しさにボーットするばかりで、フランス語はちっとも上達しませんでした。しかし思いが募り、とうとうフランスを中心としたヨーロッパ旅行に南回りの飛行機で1泊2日かかっていくこととなったのです。カイロ経由でしたが、当時テルアビブ事件直後でカイロに着陸する飛行機に、途中から装甲車が並走する中着陸したことを覚えています、飛行機はボーイング727、カイロで宿泊したホテルの部屋番号はなぜか727でした。約2か月も滞在して当時何かを成しえたとも言えず不完全燃焼でした。何としてももう一度行きたいと強く思ったものでした。そして結婚直後の新婚旅行は当然のごとくパリとなったのですが、心の奥の本質的なもやもやは解消されず、結果として三井石油化学工業パリ駐在事務所開設要員としてパリ赴任が実現して夢が現実のものとなったと思います。
パリにはオペラの殿堂、その名もオペラ座があります。ナポレオン3世により計画された建築コンペ優勝のシャルル・ガルニエ設計ですのでガルニエ宮と呼ばれています。オペラ座の前にはオペラ大通りがあり、突き当りにはルーブル美術館、大通りの裏通りには当時から日本食店が多くあり、出張や観光の方々でにぎわっていましたので、記憶されている方も多いと思います。 駐在員時代にはオペラ座の年間会員になっていたことで数多くのオペラに出会うこととなりました。またお仕事で訪仏された方々ともなんどもご一緒させていくこととなりました。オペラ座の年間会員の権利は財産として代々受け継がれて、長く持っているほどいい席を占めることができます。したがって長いあいだ会員を継続される方も多いので、定期コンサートでは、長年会員同士でお知り合いのご家族が、和気あいあいご挨拶する姿が見受けられます。
席は長く持ち続けるほどいい席を手に入れることができるので、申し込みしてもなかなか席を手に入れるのがひと苦労です。またこのような状況からお年頃のお子さんたちのお見合いの場としても使われたのは今は昔でしょうか?オペラ座と言えばそのシャガールによる天井画でも有名です。1964年に完成した天井画は当時の文化相アンドレ・マルローが30年来の友人で会ったシャガールに依頼して制作したものです。私は毎回公演ごとに天井画に見惚れていました。
近年オペラ座と言えばオペラ座の怪人を思い浮かべる方も多いと思いますが、オペラ座の最上階にはオペラ座の専属バレエ団と世界最高と言われるダンススクールのスタジオ、があることはあまりご存じないかもしれません。話は脱線しますが、このパリでわたくしの次男が生まれ、日本帰国後始めたバレエでやがて、ドイツにわたり、ドイツにあるブレーマーハーフェン、やツヴィツカウの劇場 でトップダンサートとなりやがて同僚であったダンサーと結婚することとなります。ドイツに定住することとなります。
さてパリのオペラ座も老朽化したため、1989年革命の聖地であるバスチーユに近代的な新オペラ座オペラ バステイーユが完成しております。現在はオペラバレエの公演は主にこの新劇場で行われております。
続きはまた次回。