***前号より続く***
◆なるほど、「私をスキーに連れてって」がブームに火を付けたわけですか。
内田) |
その後便利な通信手段が出現しHAMは激減しました(ToT)/~~~
通信技術の進展には凄まじいものがありますね!
★イエ電⇒ポケベル⇒ケータイ⇒スマホ⇒Chat・LINE・Zoom⇒?
そんな中HAMが認知されていた時代はごく短期間で、比較的敷居が高く趣味性の強い通信手段の限界だったと思います。 |
2.MPC千葉工場の頃
◆MPC千葉工場ではクラブ局も開設されたと伺っております。
内田) |
当時工場には結構HAMがいらして、この会報でもおなじみの半田さんもアクティブなお一人でした。まだ元気にオンエアされているかしら?
小生は、職場の電気課有志と一緒に同好会を発足し、認知アクションの実行(非常通信訓練、駅伝大会中継、文化祭実験局運用など)を経て、クラブ局JG1YHQの開設と運営予算の獲得に貢献しました。 |
|
|
主なメンバーは、電気課)吉田・秋山・茶谷・佐川さん、動力)林さん、MDP)吉田さん他の面々、初代部長を電気課長の進さんにお願いして、大きなアンテナをサッカー場の照明ポールに設置するまでに至りました(左図:当時の雄姿を復元してみました)。
送受信機と夜食を持ち寄り、徹夜でコンテストに参加した思い出がよみがえります。
クラブの居室は北門守衛所建屋の一角で、数年前に立ち寄りましたが「つわものどもが…」状態。 活動継続のエネルギーと時代への適合性が若干不足していたのかも知れません。 |
◆HAMでは遠距離交信や、地球の裏側の放送局の受信など、技術力(と資金力?)を競ったりもするようですが、思い出の遠距離通信などお聞かせください。
内田) |
1985年某日の朝、CQを出している耳慣れないコールサインを聞いて早速コールしました。コールサインは「EP2TY」、イランです。色々と話題の絶えない国からの電波でしたので、とても感激した覚えがあります。
あとで知ったのですが、局長の矢井俊夫氏は“M電産の洗濯機事業部”から一挙に“イランM電業”の社長として彼の地に赴任された方だそうです。革命後(79年4月)は戦争が終わるまで再免許されないとか、月に1回革命ポリスが来て機械の増減をチェックしスパイ等に渡っていないかをチェック云々とか、イラン・IJPCの運命を身近に感じさせられる遠距離交信でした。 |
(EP2TY局のQSLカード)
◆前回のお話では、「HAM-worldの進化と広がりを大いに楽しむつもり」とのことでしたが、抱負など次回お聞かせください。
内田) |
承知しました。今浦島の戯言かもしれませんが、どうぞご期待を(@^^)/~~~ |
***次回に続く****