KさんがM化学に入社したときの同期の桜は十八人。そのうち十三人が社長となった。といえば超珍しい話になるが、勿論M化学の本物の社長になったのは一人。他は子会社の社長や転職先の会社で社長になったものである。
昭和三十年代のはじめ就職難の頃に、厳しい選抜を経て入社しただけに、それなりの人物が揃っていた。
特に豪傑、奇人はいなかった。一寸変わっているといえばO氏。勉強一筋で来たのか、カマトトと思われる程世間ずれしていなかった。同期の仲間はO氏を尊敬とからかいを込めて「紳士」と呼ぶようになった。
見方によっては紳士はO氏一人だけでなく、同期の全員が紳士と呼ぶにふさわしい人物ばっかりだった。
その後の会社生活でもライバル意識をむき出しにするようなものはいなかった。足を引っ張り合うようなこともなかった。同期の中で役員に昇進したのは、Sさん一人であったが、同期の全員が素直に祝福した。飄々としたSさんの人柄には全員が一目置いていたからである。Sさんが社長に就任したときは同期の誇りと喜び合った。今では、第一線を退き、気楽な生活を送れるようになった仲間たちは、社長として苦労が続くであろうSさんに、心より同情している。四十年の時が過ぎても同期の桜の紳士ぶりは変わっていなかった。
Sさんは若い頃にも一度だけ同期の仲間より同情されたことがある。Sさんが事務系では、工場を卒業するのが最も遅れたからである。
その頃M化学では、大学卒の新人社員は全員が一旦九州にある主力工場に赴任することになっていた。一年間の現場実習の後、工場の総務、人事、経理、製品といった各課に配属されるが、二、三年のうちには本社に引き上げられた。
Sさんは、製品課に配属されたが、同期や後から入社した後輩達が、早々と本社に転勤していくのに、Sさんだけはそのまま十年近く工場に留め置かれた。同期の仲間は、Sさんが貧乏くじを引いたのではないかと同情したものだ。
ところが、真実は貧乏くじどころかSさんは英才教育を受けていたのである。M化学では一社一工場の名残りで、工場の製品課は生産現場と本社営業の接点に位置しており、会社全体の仕組みを勉強するには最も適したところだった。更に重要なことは、上司に恵まれたことである。当時の課長が後年、社長、会長を勤めM化学の中興の祖となられたYさんであった。SさんはこのYさんの薫陶を永く受けることができたのである。
同期で社内結婚したのは純情派の三人。IさんとKさんのケースは、職場で机を並べていた女性とごく自然に結ばれたものである。
意外だったのは、女性関係でも晩熟と思われた紳士のO氏のケース。O氏は進学、卒論の実験、就職など人生の節目節目の課題に自分の尺度を持ってきちんと取り組んで来た。適齢期になると結婚問題にもO氏らしいやり方できちんと取り組んだ。技術屋らしく冷静に複数の候補者について、綿密なリサーチをした上、目標を一つに絞ると積極果敢なアタックを試みた。その結果高嶺の花と思われた所長秘書を陥落させてしまったのである。
後で判ったことだが、O氏夫人の姪が一世を風靡したアイドル歌手のM・S子である。拝見したところ姪のM・S子より叔母に当るO氏夫人の方が美形である。端正な顔立ちをしたO氏との間には、目もとのバッチリした可愛い子供達が次々と生まれた。O氏はベストな選択をしたのである。
当時の人事係長より聞いた話。その頃、工場で女子社員を採用するときは、世間知らずの純情な大学卒新入社員が、間違って相手に選んでもいいように、それなりの女性を選考するように心掛けていたという。おかげで社内結婚の三人は、銀婚式も無事にすませ幸せに暮しているようだ。
Kさんの一寸恥ずかしい話
Kさんが五十歳を過ぎ役員適齢期になった頃のこと。 M化学では役員改選期が近づいて来た頃に、「自社株を持っているか」「自社株を一万株買っておけ」といわれたらそれは役員昇進の内示であると言い伝えられていた。実際に株主総会の議案書の取締役候補者の持株欄には例外なく一万株と記されていた。
Kさんは事務系の役員は営業、開発経験者がより適わしいと考えていたので、労務、業務畑の自分自身に役員昇進の可能性はないと覚悟していた。しかし、万一ということもある。せめて役員の必要条件の一つである自社株一万株は、事前に用意しておくべきだと考えた。持ち家したばかりで、経済的には苦しい時ではあったが、M化学の株を何回かに分けて買い増していった。まだバブルが膨らみつつある頃で、目標の一万株に達した時の平均購入単価は七〇〇円近くになっていた。発表された役員候補者には、同期よりSさん一人だけが選ばれていた。予想通りであったので、Kさんは特に失望することもなかった。時あたかもバブルの盛り、M化学の株価もこれ迄の最高値の一二〇〇円をつけていた。Kさんは役員昇進こそ逸したが、苦労して買い求めた自社株でかなりの含み益を得ることができた。
「天は自ら助くるものを助く」とKさんは悦にいっていた。ところがバブルがはじけ、株は暴落し、M化学の株価も二〇〇円近く迄下げてしまった。含み益どころか、逆に含み損を抱えることになった。役員昇進への夢は消えた上、株の損に追い討ちをかけられた。こういうのを「泣きっ面に蜂」「踏んだり蹴ったり」というのでしょうか。
自社株購入で損もしたが自社株購入が縁でいいこともあった。
自社株の購入で取り引きの始まった証券会社の営業マンより、電話がかかって来た。
予てより、その営業マンにはKさんは自社株の他に株の売買をする積りがないこと、勤務時間中に会社に電話をかけて来てはいけないことを厳しく言ってあった。本来なら直ぐにガチヤンと電話を切るところであったが、営業マンの話が近く東京市場に上場予定の、アメリカの会社の株を、得意先に斡旋しているということだったので電話を切るのに躊躇した。一週間前に、経済講演会で聞いたNという国際経済評論家の話を思い出したからである。
N氏はその頃の大勢が「アメリカの企業の没落、日本企業の優位と円高・ドル安の進行」を主張しているときに、これとは逆に「アメリカ企業の復活とドル高・円安への反転」を大胆に予言したのである。説明に使われたデータの切り口も鋭く、説得力があった。Kさんにはピンとくるものがあった。アメリカの株を今買っておけば、アメリカ企業の復活とドル高・円安で、円換算のアメリカ株は一飜、二飜(飜とは麻雀用語で点数が倍になること)で、上昇するはずだと直感した。
しかし、Kさんはアメリカの株の買い方を知らなかったので、実際にアメリカの株を手に入れられるとは考えてもいなかった。
そういうときの、タイミングのいい営業マンからの電話だった。話に興味を持ったが、現実問題としてお金の余裕もない。勤務時間中でもあったので詳しい詰も開かずに電話を切った。実際には、その話に未練を持っていたせいか、Kさんの営業マンに対する返事はYESともNOともはっきりしない曖昧なものだったようだ。
二日後に営業マンより得意気に電話がかかって来た。「Kさんのために二〇〇株確保できました。ついては、今日の午後三時迄に百二十万円払い込んでください」というのだ。Kさんは、営業マンの恩着せがましい一方的な喋り方に腹も立ったが、同時に先日あいまいな態度をとった自分自身にも腹を立てていた。「そんな急な話、お金があるはずがない」と言いかけて、あるものを思いだした。
二年程前、ある会社の事務部長をしていた頃、取引先の銀行より、半ば強制的に、個人の立場での当座預金の口座を開設させられていた。当座預金には、当座貸越という契約がついていたので、預金の残高がなくても小切手を振り出すことができるので便利なものであった。金利が普通のローンに比べて、高いこともあってKさんはそれまで利用したことはなかった。その小切手による払い込みを思いついたのである。Kさんは生まれて初めて小切手にサインして、アメリカの会社の株を手に入れた。
名前も確かめずに手にした株のアメリカの会社の名前はモトローラだった。Kさんは不勉強で知らなかったが、移動通信・半導体で有名なハイテクの優良株であった。
アメリカの株の買い方と小切手の利用を覚えたKさんは、引き続きGE・ダウケミカル・アンハイザープッシュというアメリカの株を夫々最小の取り引き単位の百株ずつだったが買い求めた。正直なところKさんはアメリカの株ならどこでもいいと考えていたが、今度は特に関心のある会社にした。GEは電機会社ながら、化学の分野でもエンジニアリング樹脂が世界最強の会社。ダウケミカルは、電解技術に強い化学会社。アンハイザーブッシュは、S軽金属で輸出入を担当しているSさんに紹介されたアルミ缶まで一貫生産するビール会社。
昭和六十三年頃のことである。
それから十年たった現在、国際経済評論家N氏の大胆な予言はドル、円の為替相場の方は当たったとはいえないが、アメリカ企業の復活は見事に的中した。それに伴いアメリカのダウ平均も、十年前二千ドル前後だったものが、平成十年三月には、これ迄の最高値の八千九百ドルに上昇している。
Kさんの持っているアメリカの会社の株も総額で五倍近く上昇した。中でもGEは株式の分割も含め七倍近くになっている。
Kさんは自社株では損をしたが、自社株購入が縁で手に入れたアメリカの株でその損を上廻る含み益をあげることができた。こういうのを「ケガの功名」というのでしょうか。
Kさんは、今がアメリカの株の売り時だと考えている。しかし、中々手放すことができないでいる。理由は二つ。
一つは、Kさんの性格である。株にしろ、女性にしろ一旦縁を結ぶとその縁を切ることができないのである。
二つには、株はインフレに比較的強いと考えられるからである。選挙を前提にする民主主義体制の国家は、国民に甘い事をいいがちなので、常に国家財政は赤字に陥り易い。国債を発行してやりくりをする。それが行き詰まると、国債負担の軽減をはかるためにインフレ政策をとることになる。日本でも戦時に大量発行した国債は終戦のドサクサのインフレでタダ同然となった。為政者は、インフレの誘惑に勝てないものだ。日本経済は今こそデフレ気味であるが、世界的長期的にみればインフレがいやでも進むとKさんは見ている。現役を退いた高齢者にはインフレに対抗できる資産防衛策はない。究極的には物の価値に連なっている株は、金融資産の中ではインフレに強い方であろうとKさんは考えている。
Kさんは自社株の購入を通じて、株のことを少しは勉強した。その中で、素晴らしい株の格言を知った。
「最高値で売らず、最安値で買わず」
これは、安く買って高く売り、売買差益を得るという株の常識と全く逆のことを言っているが、株の売買で最も難しいのが売買のタイミングであることを喝破しているのである。
同じような格言に「まだはもうなり、もうはまだなり」というのがある。まだ上がるだろうと欲を出せば売り時を逸する。もう買おうとあせると高いものをつかんでしまうという教訓である。
ところが「最高値で売らず、最安値で買わず」という格言は、単に売買のタイミングのことをいっているのではなく、もっと基本的な心構えを説いていたのだ。
大正から昭和にかけて活躍し、財閥をなしたある経済人が、商売の基本的な心構えとして「最高値で売らず、最安値で買わず」を説いておられたのである。
物を売るときは得意先にも利益が出るような値段で売りなさい。物を買うときは仕入先にも利益が残るような値段で買いなさい。
商売を大きくするためには、得意先、仕入先との「共存共栄」を心掛けなさい。と説いているのである。今風にいえば一人勝ちはいけませんよということである。
「共存共栄」が大事なのは商売の世界だけではない。「共存共栄」は広く人の世に通用する最高の哲理なのである。
Kさんの机の上には「共存共栄」と書かれた額皿が置かれている。Kさんが学んだ大学の柔道部長だったT先生が、叙勲を受けられたとき、自ら揮毫され、教え子達に配られたものである。
(本稿は木澤廉治著「人生いろいろ面白きかな人生」(文芸社刊4刷り800円)に収載されているものである。)