昨年11月でベルリンの壁が崩壊してから30年になる。ベルリンについて特段の関心は無いし、ましてや住んだこともない。ただ、仕事で数回訪れただけである。
その頃のことを備忘録としてまとめてみた。
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(出典:「ベルリンの壁崩壊30周年」より) |
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ベルリンの壁崩壊の3ヶ月前
ある欧州の会社のベルリン工場を訪問した。小生はセールスエンジニアとして技術サービスが仕事であった。ミーティングの後、工場見学をしたが、工場の敷地の端は川になっており、対岸をみると何か暗い感じのする建物があった。あれは何ですかと質問したところ“東ドイツの監視塔です”との返事があった。では、ここから向こうに泳いで行ったらShootingされますかと(ジョークのつもりで)聞いたら真顔で“その通り”との返事があった。
その夜の会食でいろいろな話を聞いた。最も驚いたのは西ベルリンの位置であった。これは単に小生の無知無学でしかないが、ベルリンは西ドイツと東ドイツとの境にあり、そこが西と東に分かれていると思っていたが、そうではなくベルリンは東ドイツのど真ん中にあり、西ベルリンが四方を壁で囲まれた土地であることを知った。したがって、西ベルリンは東西15km南北30kmの広さを持つ東ドイツの中の孤島であった。多少の言い訳を言わせていただけるなら、西ベルリンにはドイツ以外の国から空路入国したので東ドイツの真ん中に着陸したとは気づかなかった。いずれにせよお粗末な話である。 |
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ベルリンの壁崩壊の当日
この日は西ドイツでの仕事を終え、デュセルドルフ市中より車で2時間位いの郊外のホテルに入った。この時期は「K-メッセ」が開かれており市中のホテルは満室で全く取れなかった。その為、郊外のガソリンスタンドの2階の、日本で言えば木賃宿の様な粗末なホテルしか取れなかった。
夕食まではいくらか時間があったのでテレビでも見ようとスイッチを入れた。
そのテレビは白黒でチャンネルをガチャガチャ回す日本では昭和40年代の型式のもので画面も暗く映りも最低であった。画面はどこかの会社の労働争議を実況中継しているようで工場の壁を壊していた。何せドイツ語読解力は皆無、全く理解不能、テレビを消した。
出張に出てから10日余り経ったので、東京(自宅)の家内に電話を入れた。
家内は少々興奮気味に、
「今、ドイツは大変でしょう。東ドイツの民衆がどんどん西ドイツに雪崩れ込んできて大混乱になっているでしょう。大丈夫なの?」
小生「えつー 何の話だい」
家内「何に言ってんのよ。今ベルリンの壁が破られて世界中大騒ぎ。日本もNHKが朝から中継放送しっぱなしだよ」
今度はこちらがビックリ。家内から出来るだけの情報を聞き出し明日からの話題、行動の参考にした。それにしても、この田舎町は全く静寂そのもので何も感じられ なかった。
翌日、他社の技術コンサルタントであるS博士と当社デュセルドルフ事務所のY女史と同行し、道すがら車中で今後のドイツの行く末について雑談をした。
S博士は(噂によると)第2次世界大戦中にヒットラーユーゲントの一員として活動し終戦直前に脱走して南アフリカに潜伏した経歴をもつ老人で、東西ドイツは同一民族として合併併合して一つのドイツになるべきである、との意見であった。Y女史は戦後ニュールンベルグで生まれの30代で、東西では経済格差が大きいので早急の合併は避けたほうが良いと言っていた。 |
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(3) |
壁崩壊から数年後
ベルリンの壁崩壊から何年後であったか定かではない。その日の夕方、同僚とともにホテルに入り、夕食は久しぶりに日本食を選択した。コンセルジュで日本レストランを紹介され簡単な地図もらって歩き始めた。ところが1時間近く歩いても見付からず、だだっ広いコンクリートを敷いた駐車場のような更地に行き着いた。その中央を通り抜け暫く歩いたところ、いかにも東欧圏らしい装飾の少ない建物(ホテル)があり、そこのレストランでドイツ食にありついた。
帰路、再びコンクリートの更地の広場を通ったら「Charlie」と書いた仮の標識を見つけた。そうか、ここがあの「Check Point Charlie」(東西ドイツの検問所)ではないか。ベルリンの壁が出来て以来、200人近い人が亡くなった(射殺、溺死等)代表的な場所であった。
行こうと思えば何時でも行けそうなベルリンである。
だが、おそらく、もう行かないであろう。 |
(完)