You Tubeでいろいろな話を見ていたら、邪馬台国は四国にあったという説が有ることを知り興味がわいた。横濱市図書館に出かけたら、邪馬台国に関する本が、書架いっぱいに並んでいる。多分数百冊有るだろう。全部読み切るには、意欲、情熱が不足しているし、余命も不足しているが、数冊の本、YouTube およびインターネット情報によって、以下考察する。
1. |
魏志倭人伝は卑弥呼の国(女王国)が魏に朝礼(景初3年=西暦239年)した返礼に、魏の役人が卑弥呼の国を訪問し(西暦240年)、帰国後の紀行記を皇帝に提出したものと推察する。 |
2. |
魏志倭人伝の原文は草書で書かれた。陳寿は後年、それを草書略字体で書き写し、草稿を作り、編纂した。今、残っているのは陳寿の自宅に残っていた草稿をさらに書き写したものである。略字体は似たような略字が多く、間違いやすい。また、もともと、口語で呼ばれていた古代日本の地名を魏の時代の漢字に引き直す際に、発音を元に引き当てているので、ここでも間違いが生じやすい。 |
3. |
魏志倭人伝は卑弥呼の墓、その死(西暦247年)後の大乱、後継者のことも記しているから、卑弥呼の死後、卑弥呼の国を訪問したと思われる。 |
4. |
女王国の国には20か国以上が連合している。卑弥呼の国は女王国の中心で徳島県名西郡神山町から徳島市付近と考えられる。 |
5. |
卑弥呼の墓は直径100歩=25.5メートル。徳島県で合致する古墳は 徳島市国府町矢野にある宮谷古墳(前方後円墳)である。皇室の墳墓=御陵と指定されていないならば、地元の同意が得られるならば、発掘できるはず。 |
6. |
卑弥呼の国について、多数の説が出ているが、距離や方角が合わない場合、誤記だとか、勘違いと片付けて、郷土愛に基づいた自分の説に有利な箇所だけ採用している。これは我田引水。決定的な誤りが無く、かつ魏志倭人伝の内容に最も近いものが正しい説と見るべきだ。YouTube 8.新春特番魏志倭人伝を最新技術で読み解いた に於いて、Google Earthを用いて、距離や方角の、疑問を解いている。このYouTubeは 参考図書6.邪馬壹国は阿波徳島 に基づいている。 |
7. |
魏の時代、1里は76から77メーターと判明している。魏の時代、南北、東西 を測定する技術があり、ピタゴラスの直角三角形の原理 も知られていた。1里は76から77メーターとして説を唱えている著者はすくない。 |
8. |
- 魏使は来るときは四国を左回りに投馬国(宿毛)に上陸。徳島県迄、歩行したと推定。
ただし、この部分はかなり曖昧。上陸地点は魏志倭人伝に記載が無い。 |
9. |
魏への帰国は瀬戸内海を経由したものと推定。結果として四国を一周。大杉氏は邪馬台国に連合していた21か国のうち、14か国を順番を含めて、比定した。比定とは古代の中国語で記載された地名と現代の地名を対比させること。 |
10. |
卑弥呼の死んだのは紀元248年とのこと。日本では247年及び248年に日食があった。
アマテラスの天の岩戸に隠れたとの伝説と一致する。 |
11. |
大杉氏は1993年に出版した文献1)に於いて、著名な邪馬台国研究者(約60名)に次々と比定地の論争を申し入れて、すべて、反論されていないと言っている。その後、高名な学者や研究者には彼の説は引用されていない。敬遠されたのだろう。 |
12. |
徳島市の隣の阿南市に若杉山遺跡から朱=硫化水銀=辰砂 採掘跡が見つかっている。日経新聞夕刊(平成31年2月)やインターネットでは1から3世紀と記されており、日本最古かどうか?当時日本でここだけか? YouTube 8.新春特番魏志倭人伝を最新技術で読み解いた では 徳島県鳴門市 八人塚古墳2号慕から出た朱の硫黄元素同位体分析により、魏の国、陝西省からもたらされた交易品の朱が使われていた。その後の徳島県内の古墳、キトラ 及び 高松塚古墳の壁画では同位体分析により、若杉山遺跡の朱が使われていたという。ゆえに、邪馬台国時代、奈良、三重県、九州の朱はまだ発見されていなかったと考察する。
(文献5 邪馬台国は朱の王国だった/蒲池明弘/2018年7月 では九州北部から中部、徳島県、大和盆地近辺から三重県でも朱が産出されたと記述がある。ただし、時間軸的な解説がないから、この文献からは、邪馬台国時代、朱が徳島県だけで産出したかどうかは不明) |
13. |
徳島県阿南市には1800年続く阿波忌部一族がおり、宮廷の祭祀をつかさどり、今でも朝廷に麻の織物を献上しているという。一族の長、鈴木氏は四国にあった勢力がヤマトに進出したと推定しているが、四国の勢力が卑弥呼の国とまでは踏み込んでいない。 |
14. |
これからは私の仮説。箸墓古墳の築造時期は西暦250年から後と推測されている。また、日本書紀と古事記には邪馬台国の記述がない。その時代以前の文献がヤマト朝廷に不都合な文献だったのか、すべて消却された。故に、邪馬台国が奈良ヤマトに移ったと言うよりは、邪馬台国はヤマト政権に服属されたと推定する。 |
参考資料
図書館から次の4冊を借り出した。
1. |
邪馬台国の結論は四国山上説だ/大杉 博/1993 |
2. |
邪馬台国魏志が歩いた道/丸山やす成/2009 |
3. |
邪馬台国をとらえなおす/大塚初重/2012 |
4. |
邪馬台国と初期ヤマト政権の謎を探る/塚口義信/2016
最近出版された次の書を購入した。 |
5. |
邪馬台国は朱の王国だった/蒲池明弘/2018年7月 |
6. |
邪馬壹国は阿波徳島(自費出版/A1判両面印刷)/歴史まちづくり推進協議会/編集
梨目正/201509011/平惣 阿南センター取り扱い 540円(TAX込み)+郵便140円
インターネットで検索し、次の話を利用する。 |
7. |
邪馬台国四国論/池澤康 2011年3月3日
https://blog.goo.ne.jp/sagamiyakko123/e/
91f25ba7ffc4fe7c1e136995de03fb68
池澤康氏が上記1.邪馬台国の結論は四国山上説だ/大杉 博/1993
を詳細に説明している。高名な学者や研究者に比定地について論争を仕掛け、論破されたことが無いと言っている。ただし帯方郡から邪馬台国への方向は日本列島の並びが韓国から南に向かって並んでいると、当時は考えていたと推定している。大杉氏は邪馬台国に連合していた21か国のうち、14か国を順番を含めて、比定した。比定とは古代の中国語で記載された地名と現代の地名を対比させること。
上記、比定地の論争に論破されたのか、学者たちは四国説をまったく取り上げていない。
魏志倭人伝に示された、里という距離については大杉氏も池澤氏も説明していない。 |
8. |
ぐーたら気延日記 八人塚古墳見学会報告 2012年12月2日
http://goutara.blogspot.com/2012/12/blog-post.html
朱の硫黄同位体分析について報告している。徳島県八人塚古墳 萩原2号慕からの朱は中国 魏の陝西省(せんせいしょう)産であった。魏と交易があった証拠である。その後、他の阿波の国の古墳、キトラ、高松塚古墳の絵では徳島若杉山の朱が使われている。極めて重要な話である。
YouTubeに於いて検索し、下記の記事を見つけた。(YouTubeを起動し、https 以下を挿入。探すこと)
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9. |
新春特番魏志倭人伝を最新技術で読み解いた 2017/11/25
https://www.youtube.com/watch?v=63bNv7RmHH
私が調べた範囲ではこの説明が完ペキではないが、決定的である。魏志倭人伝に示された、魏の時代、1里は76から77メーターと説明している。魏の時代、南北、東西 を測定する技術があり、ピタゴラスの直角三角形の原理 も知られていたとのこと。魏の時代の測定及び算術によって、2地点の直線距離が求められることを証明している。倭人伝に於ける距離は直線距離である。邪馬台国21か国は四国 徳島にあったということは大杉氏の説と合ってあるが、細部は一致していない。特に、魏氏は左回りに、四国を一周したと考える方が辻褄が合うはずだが、解説は曖昧だ。徳島県阿南市には1800年続く阿波忌部一族がおり、宮廷の祭祀をつかさどり、今でも朝廷に麻の織物を献上しているという。当時、朱=硫化水銀=辰砂 は日本列島では阿波 阿南市の若杉山遺跡しか産出しなかったという。一方、徳島県鳴門市 八人塚古墳2号慕から出た朱の硫黄元素同位体分析により、魏の国、陝西省(せんせいしょう)からもたらされた朱が使われていた。その後の徳島県の古墳、キトラ 及び 高松塚古墳の壁画では同位体分析により、若杉山遺跡の朱が使われていたという。ゆえに、卑弥呼の時代は朱は国内唯一、若杉山でのみ産出していたと見るべきだろう。(文献5 邪馬台国は朱の王国だった/蒲池明弘/2018年7月 では九州北部から中部、徳島県、大和盆地近辺から三重県でも朱が産出されたと記述がある。ただし、時間軸的な解説がないから、この文献からは、邪馬台国時代、朱が徳島県だけで産出したかどうかは不明) |
10. |
剣山TV 本当の邪馬台国 四国山上説 その1 1/3 2013/05/01
https://www.youtube.com/watch?v=lWJRbf_jaWU
大杉氏の四国山上説 を説明している。1/3に続きて2/3.3/3 がある。
邪馬台国の特定=比定 は重要な説明です。 |
11. |
剣山TV 本当の邪馬台国 四国山上説 その2 2/3 2013/05/01
https://www.youtube.com/watch?v=V90Ftxp3Cr8 |
12. |
剣山TV 本当の邪馬台国 四国山上説 その3 3/3
https://www.youtube.com/watch?v=aSgxjoFDwUw
魏志倭人伝に示された次の4点も徳島に符合するという
(1)山に丹あり
若杉山遺跡。朱は国 (当時の都市国家) 外への交易品だった。
(2)牛馬なし
四国山上説に合う。貯水池の汚染防止の為に牛馬は使わぬ。
(3)卑弥呼が魏の皇帝から金印をもらった
墳墓の近くの神社の御本気(御由緒及沿革)に朱で覆って墓に共に埋めたとある。掘って見なければ確かめられない。
(4)卑弥呼の墓は径100余歩
徳島県には直径25メートルくらいの墳墓は存在する。 |
13. |
▲裏・歴史▼ 邪馬台国は近畿でも九州でもなく四国にあった!?1800年続く謎の一族が証言![ミステリー#78
https://www.youtube.com/watch?v=Pe0eRvxzWfY
徳島には多数の古墳が見つかっている。 |
14. |
邪馬台国は女王麻氐良国の都だった。草書体で解く邪馬台国の謎/井上悦文
https://www.youtube.com/watch?v=IJ0Z-mAK7aw
2015/06/27
魏志倭人伝の地名を比定するのに重要な説明であるが、九州北部の地名ばかりである。字体だけの考察で、風習、地形、産物などその他の項目については考察されていない。
三国志原本の字体 は草書であった.後世、陳寿、それを草書の殺字(略字)に書き写した。それをさらに書き写して皇帝に差し出した際に、書き間違い、読み間違いをしている。(文字の崩し方でよく似た字が間違えられている。またはそれを読み、書き写した際に間違いが生じやすい)その当時中国の言語 上古音(周秦)を音読みで読んではいけない、訓読み(漢字をその意味に相当する倭語によって読む読み方)で行うべき。
卑弥呼=天照大神 であって筑前朝倉にあった。 |
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以上 |