鹿児島城 H30.3.17、H30.10.8
[ウィキペディアより引用]
島津氏初代忠久は建久8年(1197)鎌倉幕府を開いた源頼朝によって、薩摩・大隅・日向三国の守護職に任じられた。以後、島津氏は南九州を拠点として一大勢力を築き上げてきた。
戦国時代に入ると、時の島津氏16代当主義久は豊後の名門大友氏や肥前の名門龍造寺氏を攻め立てるなど北九州にまで勢力を伸ばしたが、天正15年(1587)豊臣秀吉による九州征伐では、秀吉方の大軍には抗すべくも無く、島津義久はすばやく剃髪して降伏。このため旧領を安堵された。
慶長5年(1600)関ケ原の合戦に際して、島津義久と家督を継いだ島津義弘(義久の弟)は西軍に属したが、合戦には参加せず、西軍の敗北が決定的になった時、徳川家康軍の目の前を駆け抜けて本国に引き揚げた。これが有名な島津の「敵中突破」である。
従来、島津氏は領内を転々として本拠を構えていたが、慶長7年(1602)島津義弘の後を継いだ島津家久(義弘の子)が島津氏の本城として鶴丸城(鹿児島城)の築城工事に着工、慶長9年(1604)に完成した。
鹿児島城は77万石の大名の居城としては天主や重曹櫓などは築かれず、城山を天然の要塞として麓に本丸御殿を設けただけの小規模なものであった。これは徳川幕府に対しての恭順の意を表すためだったといわれている。
ただ、薩摩島津藩は領内に郷を単位として百を越す外城(とじょう)を築き、領内全体で防御を固めるという、全国でも例のない体制を整えていた。元和元年(1615)の一国一城令によって外城の建物は形式的に取り壊されたが、要害としての外城は「麓」と称して明治維新まで存続することになる。「麓」の多くは山を巧みに利用し、その下に屋敷を設けて集落を形成していた。
鹿児島城は島津家久から数えて島津氏12代の居城として明治維新を迎えたが、鎌倉時代当初から同じ領国を支配し続けた例はほとんどない。
薩摩藩が歴史に再び大きく登場するのは幕末になってからである。西郷隆盛や大久保利通らの逸材を生み出し、土佐の坂本龍馬の斡旋で長州藩と同盟を結び、明治元年(1868)錦の御旗を掲げて鳥羽・伏見の戦いを皮切りとした戊辰戦争で徳川幕府を倒して、明治政府の中核となった。
明治10年、明治新政府に不満を抱く薩摩の旧士族たちは西郷隆盛を担ぎ上げて西南戦争を引き起こした。熊本の田原坂で薩摩軍は明治新政府軍に大敗し、最後は城山に立て籠もったが、力尽きて西郷隆盛以下全員が自刃した史実は歴史の皮肉というしかない。
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鹿児島城(別名:鶴丸城) |
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鹿児島城 石垣 |
尚古集成館 H30.10.8
幕末、薩摩藩主島津斉彬は西欧諸国のアジア進出に対応し軍事のみならず産業の育成を進め、富国強兵を真っ先に実践した。それら事業の中心になったのが磯に建てられた工場群「集成館」である。その他に慶応元年(1865)に竣工した機械工場は、重要文化財となっており、現在内部は島津家の歴史、文化と集成館事業を語り継ぐ博物館「尚古集成館」として親しまれている。
2015年7月「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」が世界文化遺産に登録された。尚古集成館や仙厳園一帯はその構成資産となった。斉彬亡き後も、彼の志を受け継ぐ人々が集成館を舞台に強く豊かな国づくりを目指す。そして、彼らが培った技術が、近代日本の中核となり、工業国・技術大国の原点となった。現在、この地は「日本の近代化・工業化発祥の地」として世界から注目されている。
尚古集成館の隣に島津薩摩切子ギャラリーショップ磯工芸館がある。
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尚古集成館 本館 |
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反射炉跡
鉄製大砲の製造のため斉彬たちは実物を見ず、オランダの書物を参考に苦心して建設。
かっては約20mの高さの建物がそびえており、洋式工場群「集成館」の中核だった。 |
仙厳園 H30.10.8
名勝仙厳園は、江戸時代初期の万治元年(1658)、19代島津光久によって築かれた薩摩藩主島津家の別邸である。目前の桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた壮大な庭園は、数ある大名庭園の中でも他に類を見ないスケールの大きさである。また、海外とつながる「南の玄関口」といわれた薩摩の歴史にふさわしく、中国・琉球文化の影響が園内随所に見られる。歴代当主に愛されたこの庭には、徳川将軍家に嫁いだ篤姫や海外の要人も足を運んだ。
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名勝仙厳園 |
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仙厳園 曲水園 |
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仙厳園 錫門
薩摩の特産品である錫で屋根を葺いている。
御殿への入口で、江戸時代は、藩主とその世子(長男)だけが通ることが許された正門だった。 |
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仙厳園 鶴灯籠
安政4年(1857)、島津斉彬は鶴灯籠を用いてガス灯の実験を行った。この後、城下町をガス灯で灯す計画を立てるが、志半ばで急死。
斉彬の象徴となるもの。 |
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仙厳園 御殿の庭園 |
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仙厳園 御殿座敷 |
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示現流、薬丸自顕流の木刀と横木 |
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西郷隆盛銅像 H30.10.8
江戸城無血開城や明治新政府樹立など明治維新に最大の功績を残した「西郷どん」であるが、突然職を辞めて鹿児島に帰郷。その後、西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、この城山の地で自刃した。没後50年祭記念として鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の製作者・安藤照が8年かけ制作し、昭和12年(1937)5月23日に銅像が完成した。わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちする高さ8mの堂々たるモニュメントである。
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西郷隆盛像 |
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城山 H30.10.8
明治10年(1877)9月、西南戦争において撤退を余儀なくされた西郷軍はこの城山に立てこもり最後の抵抗を試みたが、最新の武器と圧倒的な兵力を持つ新政府軍の前に西郷隆盛は自刃に追い込まれ、他の西郷軍側将兵の多くも戦死した。
現在、城山には西郷軍が本営を置いていた跡地と西郷隆盛たちが最後の5日間をすごした洞窟が残っている。
薩摩藩最後の藩主・島津忠義の娘・良子(ながこ)様は昭和天皇の皇后である。城山展望所には、良子様が昭和天皇とご一緒に植樹した時の記念碑が建っている。
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城山展望所より桜島を望む |
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西郷隆盛と大久保利通の生誕碑 H30.10.8
西郷隆盛は文政10年(1828)1月23日、薩摩藩の下加冶屋町で生まれた。下加冶屋町は城下町ではあるが、お城(鶴丸城)からは遠く、下級藩士の家が立ち並んでいたところで、生誕地は西郷隆盛の父である吉兵衛の家である。兄とともに明治に活躍する従道もここで生まれた。現在は木々に囲まれて公園のように整備されている。
公園内には「西郷隆盛君誕生の地」と書かれた石碑がある。これは西郷の賊名が解かれた明治22年に、従兄弟の大山巌たちが敷地を買い取って建てたものである。同時に大久保利通の屋敷跡にも生年月日以外はまったく同じ石碑を建てた。
明治10年に西南戦争で西郷が亡くなり、翌年には大久保も暗殺されてしまう。
同じ町内で育ち、お互い信頼しあっていたと思われる2人が西南戦争で対峙したため、裏切りや仲たがいがあったと思われがちだが、2人の近しい人たちがどう思っていたのか、なかなか興味がわく石碑である。
生誕地のある下加冶屋町出身の明治維新関連・薩摩藩士は、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、吉井友実、村田新八など、錚々たる顔ぶれである。小さな下加冶屋町方限の中で、これだけ歴史上の人物が排出されるのは驚きであるが、薩摩藩の郷中教育に一因があるのではないかと思われる。
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西郷隆盛生誕碑 |
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大久保利通生誕碑 |