I.中国人の今日この頃
1.すれ違う両国民の思い(三井化学社友会便り1月10日付で既掲載)
2.中国との印象的な出会い
三井化学退職を上海で迎えてから既に10年近く経ちますが、未だに年に数回上海を中心に中国通いを続けています。それは多分上海に吹く風が私に何とも言えない活気を吹き込んでくれるからでしょう。上海にはいろいろな風が吹いています。上海の玄関口の浦東国際空港に吹く風、浦東の金融ビル街の風、美しい夜景のワイタンの風、昔から賑わっている南京路に吹く風などが埃と活気を人々に容赦なく吹きつけてきます。
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(写真1)夜のワイタンの和平飯店前で |
さて私と中国との出会いを振り返りますと、印象的なものが4度ほどあります。初めての出会いは意外と古く、1980年のことでした。当時は国内事業に関係していましたが、上司のM社長室長が天津にある国営企業への技術援助の件で出張することになり、急遽お伴することになりました。その頃の中国は当社にとりもっぱら製品の輸出市場であり、主に輸出担当者の仕事場でした。我々企画関係者の直接には関係ない国でした。改革開放が始まったばかりの当時の中国は技術を初め何もかも不足していました。服装も人民服ばかりでおよそ町に色彩がなく殺風景なものでした。
まず成田から北京に飛びますが、ルート上の軍事秘密もあるようで上海にワンストップしてから北京へ。そこから汽車で4時間もかけて天津に向かう。今だと北京から新幹線で30~40分です。朝成田を発って天津に着くのは10時間以上経って、日がとっぷり暮れた夜8時頃です。天津駅に着くとこれがびっくりで、電灯がほとんどない野晒しホームに降り立つ。駅には2,3台しかない貴重なタクシーで、ヘッドライトも点けずに人と自転車がうごめく暗い街を走り抜けホテルにやっと着きます。このホテルがまた薄暗いので、何ともタイムスリップしてまるで大正時代の日本に迷い込んだ錯覚に襲われました。30年以上経った今同じ天津駅に降り立つと、当然ではありますがその立派さに中国の発展のものすごさを実感しました。
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(天津駅写真2、3)現在の天津駅の玄関口、その待合室 |
それから15年経って二度目の出会いが訪れました。当時の三井グループの化学系5社が中心になり、企画関係者が中国で共同プロジェクトを企画しました。上海から杭州にかけて市場調査やら立地調査やらを重ねた結果、今も存続するコンパウンドの合弁会社設立に漕ぎ着けました。
この頃でさえ中国の遅れた面が目立ちました。日本は高度成長はとっくに終わり、バブル経済が崩壊し失われた十年に突入していました。それに比して中国経済は未だテイクオフさえしていませんでした。道路は未整備でデコボコしており、片側一車線で車はポンコツ車が多く故障があると一方通行状態になります。中国人は譲ることが嫌いですから大変です。上海から杭州に行く時にまさにこの事態に巻き込まれ、3時間も立ち往生で訪問先のアポに間に合わなかった苦い経験があります。今は杭州までは高速道路で一時間位で、高速鉄道では40分と様変わりになりました。
三度目の出会いは、2001年の中国がWTOに加盟して直ぐでした。私の当時担当していたウレタン原料が中国からダンピングで訴えられた時でした。北京に赴いて価格の公正さを説明するわけです。中国の役人はアポイントがあるが、中々会ってくれないし、会っても実に不遜な態度であったのを忘れません。この時も心が沈んでいたせいもあり、大都会の北京の街の明かりが今のきらびやかさに比べ町中が薄暗かったのを忘れません。
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(写真4)きらびやかな夜の北京の今 |
そして四度目の中国との出会いは、最初の時から数えて25年後の2004年のことでした。その当時には思いもしなかった上海駐在となったのです。それまでは米国駐在を繰り返していましたので、英語圏は問題ないですが中国語圏はという戸惑いもありました。出張して見る外国と住んで見るのとでは全く見える世界が違うのです。
当時の中国は10%以上の高度成長真っただ中で、上海などの大都市では道路、地下鉄、ビルの建設ラッシュで町中が掘り返されていて、埃だらけの汚らしい街並みでした。駐在が始まってから必死に中国語を勉強して、後々今日まで上海にかかわり続けることになったのですから、人生何が起こるかわかりません。中国語が段々喋れるようになると見える世界が変わってきました。中国の庶民と仲良くなると、生活が解り文化が解るようになり、日本からの目線でなく中国から目線で中国が理解できるようになりました。
これまでの4回の中国の出会いは、前半は通りすがりの出会いで余り良い印象を持てませんでしたが、今回のように長いこと生活しながら中国を見つめて来ると、悪い点が沢山あるにしても不思議なことに良い点に強く惹かれるのです。
他国をどう見るかというのは、その立ち位置によって随分変わるものだと尽々思うようになりました。