アウシュヴィッツ訪問の記 (2017年10月)
投稿者:横山 出
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2017年10月ポーランドツアーで、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を訪ねた。向かうバスの中でツアーコンダクターの久野さんが電話で興奮、ガッツポーズをしている。その理由は直ぐ分った。日本のテレビでも著名な日本人ガイド、中谷剛さんが待っていた。たいして予習をしないで訪れた自分を恥じながら、新鮮な思いで中谷さんから聞いたことを綴ってみる。 |
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ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策 (ホロコースト) および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。収容された90%がユダヤ人(アシュケナジム)であった。アウシュヴィッツ第一強制収容所は、ドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村につくられた。 |
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ユネスコの世界遺産委員会は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年に世界遺産リストに登録した。1990年7月17日付のポーランドの連帯系の『選挙新聞』が、「アウシュヴィッツ収容所博物館」による調査結果として、ナチス・ドイツの「アウシュヴィッツ収容所」の犠牲者は、じつは約150万人レベルだったことが判明したと発表した。犠牲者の数は計約110万人。内訳はユダヤ人が96万人、ポーランド人7万5000人、ジプシー(ロマ)2万1000人、ソ連兵捕虜1万5000人など。死のキャンプからの生還者は22万3000人だったという。 |
最初はポーランド人政治犯、同性愛者などを収容する施設としてスタートした。自分が送られる全く新しい地名は、人々に希望を与えるためだったのであろうか。入り口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の一文が掲げられている。
ユダヤ人が収容され始めると収容施設が不足するにつれ、貨車で着いたそのまま、働ける人と働けない人を医者が選別し、ガス室に送り込むようになった。鞄、メガネ、靴、化粧品などの遺品が山になり展示されている。特に撮影禁止であった髪の山、三つ編みにされた髪などが生々しく残る。極寒のなかの粗末な収容所、狭いガス室、遺骸の排出設備、電気が通る鉄条網、監視塔、そして人々を運んだ線路が物悲しく続く。そこはドイツをはじめとして欧州人が過去を必ず学ぶ教育の場であり、またイスラエルからのユダヤ人には鎮魂の場であった。大浦天主堂で布教、帰国して収容された。妻子ある男性の身代わりで逝ったポーランド人のコルベ神父の碑に、前日我々が折った千羽鶴を手向けることが出来た。 |
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〈中谷さんと共に歩いたアウシュヴィッツ〉 |
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ユダヤ人を標的にした。・・・どうしてだろう。今迄の写真でみた2次元の社会から、現実に起こった3次元の世界にずんずん引き込まれる。アンネの日記にあるように人へのラベル付けされた人が収容され、ガス室に送り込まれた。中谷さんの説明に自分は、と問いかける自分があった。 |
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中谷さんの民族差別、人種差別による、ラベル付け、プロパガンダ、ポピュリズム、ヘイトスピーチなどへの人類に対する警告に、強く共感する自分があった。
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人々は新しくつけられた地名に連れて来られた。名前に中には希望を持ち、中には不安を持つ。また全く考えない人、考えたくない人もいただろう。 |
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途方もない数のカバン靴、髪の毛、メガネ、化粧道具などを見て、驚く。そして中谷さんの言葉「皆さんはただ観ているだけではないでしょうか」。此処には一人一人の気持ち、心、大変さが詰まっている。その心をどのように汲み取る、理解できるのでしょうか。 |
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晴れ着を着て、新しい靴を履いた子供の靴がある。あなたはどのように考えるのか、と中谷さんは問う。 |
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中谷さんから、どうしてこのような仕業が出来たのか、と。人を物としてあしらい、自分の趣味としても扱う。そしてそこでシラミ等に使用された殺虫剤をなぜか使用、人間に投与した。投与者に罪悪感を持たないような作業をさせた。行なった人達の気持ちは? 究明が必要、と中谷さんの研究は続いている。(上部穴から投入した) |
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生きるとはなんだろう、寒く汚れ、伝染病の恐れのため看守が寄りつかない便所。1日2回だけ許され、ただ穴だけが並ぶ其処は人間の居場所だろうか。しかしそこで赤子を育てた母親が居た。その生命を、そして思いに胸が詰まってくる。 |
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「平和のために」の強い思いを強く感じた。更に今、自分が生きていることを強く思い、アイデンティティを強く感じた。更に他人の存在、その人達の無念さ、心、想いを強く思わされた。そして自分の生、今の自分の存在、生きている幸せさを身体に沁み渡る。帰国してから、何か、エネルギーが沸いている自分を感じる今日この頃である。 |
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今 気づいた、否まだまだ気がついていない。これからの社会や人を見る時、沸々とわいてくる気持ちがあるに違いないと。私の心の中のアウシュヴィッツには、まだまだ入口に入ったばかりのような気がする。
戦後、被収容者としての経験を持つ精神科医たちは、自らの抑圧体験を研究し精神分析学の発展に貢献した。たとえば、精神科医ヴィクトール・フランクルは、実体験を記した著書「夜と霧」で、激しい苦痛の中で精神がどのようにして順応し、内面的な勝利を勝ち得ていくかについて語るとともに、患者に対し実存主義的アプローチを採る「ロゴセラピー」を新たに提唱した。 |
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