【章立て】
第5回 「七話 追いつめる」、「八話 敗北」、「最終話」
■七話 追いつめる
長崎に着いたのは、年がかわった文化二年(1805年)の正月明けの昼過ぎであった。
(長崎がこんなに栄えているとは驚きだな)
十郎右衛門は、長崎奉行の中川忠英(なかがわただてる)に挨拶に立山にある西役所に入った。
中川は、十郎右衛門から受け取った書状を読み終えていった。
「坂部殿、今後貴殿たちの面倒を見てもらう手付出役の近藤重蔵を呼んでまいるので、しばらく控の間で待ってくだされ」
四半刻ほど過ぎて、中川は近藤を伴って部屋に戻ってきた。
お互いのあいさつを終えると、近藤は、長崎の町割りが外町五十六町、内町二十四まちで、三万人ぐらい居住していると話し、地図を懐よりだして、地形についても説明した。
「坂部様、長崎は、貿易からの利益を求めてくる商人たちや、主家の滅亡により牢人たちも多くやってきて、本当に人の出入りが激しいのです。女郎達さえもが隙さえあれば、抜荷をやります。異国の地へ女を売る女衒もはびこっています」
十郎右衛門は、近藤の話を一言ももらすまいと聞きいった。
「近藤殿、抜荷は今までどのくらい摘発したのだろうか」
「某が来て二年になりますが、その間で百件になろうかと思います」
「貴殿は、山代屋をご存知か」
「山代屋ですか・・。聞いたことがありません」
「実は、江戸でその山代屋が長崎で抜荷をやっているというだけでなく、幕閣の中にもそれに関係している人間がいるらしいとの噂を、某は確認する役目をおって長崎にまいりました」
それならといって、明日にでも長崎のことをよく知っている町年寄を紹介するので、都合の時間を知らせると近藤は、いった。
朝四ツ時、十郎右衛門は、近藤の屋敷で高木、五島そして福田と名乗る三人の町年寄と会った。
高木作右衛門たちは山代屋については何も知らないと切り出した。すでに三人は、近藤から話を聴いているようであった。十郎右衛門はあらため山代屋が抜荷をしている証拠を掴みたいので協力してほしいといった。
「山代屋は、どのようなものを取り扱っているのでしょうか」
高木が聞いた。
「金や銀の骨董細工を売って、朝鮮人参やアヘンを買っているようです」
「なんと・・・アヘンとは」高木たちは驚いた。
「坂部様、長崎町年寄の面子にかけても山代屋の悪を暴くのに、協力させていただきます」
数日後、高木たち町年寄三人が、十郎右衛門が泊まっている宿にやってきた。十郎右衛門は緊迫した三人の様子をみて、戸部に連れをすぐに呼んでくるよう命じた。
四半刻もたたずに皆そろった。
「坂部様、ここから一里ほど行ったところに丸山町というところがあります。そこにある遊郭の置屋‘よし乃屋’がどうも山代屋の仲介をしているようです。先日から遊女に金をつかませて、内情を探らしています」
高木がいった。
「忙しいところ、申し訳ない」
「坂部様にお願いがあります」
「なんなりと申してみよ」
「小牧のことですが、いやよし乃屋で探りを頼んでいる遊女の名を小牧といいますが、どうも敵方から不審に思われ始めていると本人から連絡が入りました。小牧を守っていただけませんか」
「承知した。片野と藤井、小牧殿周辺を見張ってくれ。小牧殿に何かが起こったら助け出してくれ」
「承知いたしました」片野がこたえた。
「片野様、藤井様。これから小牧が探りを入れているよし乃屋にご案内します」
「片野、これをもって行け」
十郎右衛門は、片野の前に十両包みを二つ置いた。
片野と藤井は、高木の口利きで、道を挟んだよし乃屋の前にある旅籠の二階を借り、そこで、一日中見張ることにした。
よし乃屋は、毎日人の出入りが多かった。時々、唐人の姿も見かけられた。小牧との連絡も高木のおかげで取ることができた。
「しかし、腑に落ちぬ。手練手管の小牧が疑われるのが早すぎる」
十郎右衛門は、戸部たちに向かって不安げそうにいった。
「確かに」戸部がうなずいた。
「戸部、どう思う」
「もしかしたら、この件に関係する者が敵に情報を流しているのかもしれません」
「我々の中にか。いったい誰が・・・」
「調べてみましょうか」
「そうだな。長崎奉行所の連中と町年寄の三人を調べてくれ」
「奉行所はどなたを」
「奉行の中川殿と近藤殿を頼む。くれぐれも悟られぬようにな」
「まてよ、敵にこちらのことが漏れているとすれば、片野と藤井があぶない。大野、よし乃屋にいくぞ」
「坂部様、われわれは」
「奉行たちと町年寄を至急調べてくれ」
「承知しました」戸部は松元と篠田を伴って部屋を出て行った。
一方、見張りについた片野と藤井にも異変が起きていた。
「藤井、起きろ。小牧殿が唐人と店を出た。追いかけるぞ」片野が藤井の身体をゆさぶった。
すぐに二人は、薬売りの姿に変え、旅籠を飛び出て小牧たちを追った。
唐人は小牧を連れて十善寺郷にある唐人屋敷に入って行った。
片野と藤井は、近くの茶屋に入って小牧が出てくるのを待った。
八つ半時(午後三時)屋敷から唐人と小牧の二人が出てきた。
小牧が、茶屋の手前までやってきたとき、片野が、唐人の前を横切った。それを知って、小牧は文をそのあとに続いて出てきた藤井に手渡した。
藤井は、その文を持って、十郎右衛門の所に向かった。片野は路地に入り、小牧たちの行く手を見守っていると、後から五尺七寸ほどの大柄な浪人らしきが走ってきて、唐人に追いついた。
唐人は何か一言二言浪人らしき男に声をかけたように見えた。
(一体奴らはどこに行くんだ)
片野は、三人の後をつけ、福済寺を過ぎ、海に出た。小牧がそわそわしだした。
(まずい)片野は、小走りで三人の所に行った。
「これから皆さんは、どちらへ」
「なんだ、おまえは」
浪人らしき男が、鯉口を切った。
「小牧さん、某の後ろに」
唐人も青竜刀を抜いた。
片野も抜刀し、青眼の構えを取った。
バタバタバタ
「おう、やっと来たか」
唐人が数人やってきて片野を取り囲んだ。
浪人らしき男は、上段の構えからすぐに片野の頭をめがけ振り下ろしてきた。
片野はそれを左によけた。
そこを応援に駆けつけてきた一人が、青竜刀を斜に撃ってきた。
片野はそれをはねた。
「片野、大丈夫か」十郎右衛門が大声をあげて走ってきた。
藤井と大野も抜刀して十郎右衛門に続いてきた。
「引け」浪人らしき男が怒鳴った。あっという間に唐人たちは消え失せた。
「片野、けがはないか」
「申し訳ありません、敵を逃がしてしまいました」
「それはよい。これは小牧殿か」
「小牧ともうします」と小牧は震えながらいった。
「まずは無事でよかった。恐ろしい目にあった後で申し訳ないないが、詳しい話を帰って聞かせてくれ」
宿に戻った十郎右衛門たちは小牧から話を聞いたが、山代屋についての話はなかった。ただ一つ、浪人らしき男の名が仙石太郎治ということが分かった。
(仙石太郎治か、近藤殿や町年寄に聞いてみるか。江戸にも問い合わせてよう)
十郎右衛門はしばらくの間腕を組んで目をつぶっていた。
近藤や町年寄も仙石太郎治の名は聞いたことがないとの返答であった。
五日ほど過ぎて、朗報が立て続けに十郎右衛門にもたらせた。
「坂部様、どうも町年寄の福田があやしいと思われます」と戸部はいってから詳しく福田に関連する話を続けた。
「福田か。戸部、福田から目を離すな」
「承知しました」
長崎に入った阿蘭陀船から降りてきた船長らしき阿蘭陀人と福田が話をしているのを片野たちは見張っていた。
(一体何の話をしているんだ)片野は疑った。
そこに唐人がやってきて福田たちに割って入っていった。
しばらくして、話がついたかのようで三人は別れた。
「松元、篠田。福田を追ってくれ」と片野が二人にささやいた。
それから四半刻ほど後、奉行所の与力と同心たちが阿蘭陀船に乗り込んで行った。
(荷を取り調べに来たのか)片野は船を見守り続けた。
半刻ほどで役人たちは何もなかったような面持ちで船から出てきた。
何も起こらず、 一か月が過ぎた弥生月、明け七つ半。まだ寒さが残り、空は暁月が輝いていた。
店の戸が開いた。あたりを見回しながら福田が出てきた。松元と篠田はそれを見逃さずに福田の後を追った。
福田は見附の前の路地に姿を隠した。
「おい、篠田。だれだ」松元がいった。
「前を歩いているのは、二番頭の長次郎です」篠田が興奮して答えた。
福田が路地から姿を現し、長次郎に声をかけた。
「福田はやはり山代屋とつるんでいたんだ」松元も興奮していた。
「駕籠に乗っているのは山代屋でしょうか」
「そうかもしれん、それにしても取り巻きが多いな。篠田、坂部様に知らせてきてくれ」
「松元さんはどうしますか」
「俺は奴らの後をつけて、居場所をつきとめてから帰る」
「わかりました、くれぐれも気をつけてください」
二人は別れた。
松元は、それから四半刻ほど後をつけ、山代屋が、旅籠‘勝吉’に入ったのを見届けてから宿に戻った。
十郎右衛門のもとに仙石太郎治について江戸からの知らせが届いた。
仙石太郎治は薩摩藩士と書かれていた。
(薩摩藩士とは。厄介なことになったな)と思案をし始めたときに、戸部が篠田を伴って十郎右衛門の部屋を訪れてきた。
十郎右衛門は、篠田の話を聞き終えると戸部にどうしたものかと問うた。戸部はもう少し待てば松元が戻ってくるだろうから少し待ってはどうかと答えた。
半刻ほどして、松元が戻ってきて十郎右衛門と戸部に山代屋が旅籠に入ったことを伝えた。
「山代屋の主に間違いはないか」十郎右衛門が松元に念を押した。
「間違いありません、駕籠を降りるとき顔を見ました、確かに山代屋です。宿では松代屋と名のっているようです」
「わかった、ご苦労であった」
「坂部様、いかがいたしましたか」と戸部がいった。
「すぐに山代屋が動くかどうかわからんが、山代屋たちを捕縛するための応援をお奉行に頼みに行く」
「戸部、皆を集めて、役目を決めておいてくれ」
「承知いたしました」戸部が答えた。
十郎右衛門は奉行の中川忠英をたずねて、四半刻ほど合議した。
翌日、山代屋の動きを探っていた大野そして、福田を見張っていた片野から偶然にも時を同じくして、彼らが明日の朝早く港を出る段取りをしているということと行先は対馬であるとの情報を十郎右衛門にもたらした。
「大野、片野よくやった」と十郎右衛門はいうなりに、すぐさま、片野に奉行にこのことを伝え、打ち合わせの通りよろしく願うようにと命じた。
夜中九ツ(12時)、十郎右衛門たちは漁師の姿に扮して港に集結した。陽が昇り始めたとき、山代屋たちが港から出航した。
(さあ、行くぞ)奉行の中川が合図の手を挙げた。十郎右衛門たち、奉行とその配下たちは二手に分かれて山代屋の船を追った。十郎右衛門たちは先回りして、対馬の港で筵の下で息をひそめながら山代屋たちの帆船が来るのを待った。
半刻ほどで山代屋は対馬の港に入って来て、すでに泊場に停船していた唐船の横につけた。
山代屋の船から三町ほど離れたところにいた十郎右衛門たちの船の近くに奉行たちの乗った船が着いた。
「しばらく、ここで見張ることにしよう」
中川たちの載っている船に手信号を送った。
陽が昇った。
山代屋は長次郎と用心棒三人を従えて、唐船に入って行った。
十郎右衛門、中川たちは一斉に蓆をはね上げた。
「坂部殿、乗り込みます。坂部殿たちはここでごゆっくり見物していてください」
中川がいって、手を挙げた。
「承知した」
「山代屋をひっ捕らえろ」
「おう」
「御用だ、御用だ」「御用、御用」
同心たちが、威勢よく唐船に走り込んだ。
しかし、まもなく唐船に乗り込んだ同心たちが押し戻され、船から降りてしまった同心たちは用心棒が降りてくるのを待った。
すぐに用心棒たちがすさまじい顔して刀を振り回しながら同心たちの前に立ちはだかった。
「御用だ、御用だ」
十手で向うも簡単にはねのけられた。
「梯子で囲め」中川が怒鳴った。
囲んでもそれ以上同心たちは手を出せずにいた。
「坂部様、いかがいたしましょうか」と戸部が十郎右衛門が緊張した面持ちでいった。
「ちょっと待て」十郎右衛門の目は後から降りてきた男に注がれていた。
「坂部様、あいつは仙石太郎治です」
「なかなかの使い手のようだ」
仙石の所作ですぐに十郎右衛門は悟った。
「かかってこい。腰抜け役人ども」
「坂部様」戸部がいった。
「よし、皆で助成せよ」
「承知いたしました」
戸部は梯子を一か所どけさせ、松元と用心棒の前に出た。
「いい度胸だ、かかってこい」
戸部と松元は抜刀して、次々と用心棒に打ち掛かるが、簡単にあしらわれていた。
(危ない)十郎右衛門は戸部を押しとどめ用心棒の前に走り出て、二刀流の構えをするや否や、左からかかってくる男の刀を小刀で受け、峯を返した大刀で男の背を打った。
「ギャー」悲鳴を上げて地を転げまわった。
すぐに右からもう一人の男は上段から打ってきたところを十郎右衛門は一回転して身体を沈め、大刀で男の左足を払った。
足から血が吹きだした。
身体を立て直した十郎右衛門の前に仙石が立ちはだかった。
「小癪な老いぼれめが。叩き斬ってやる」
仙石が下段に構えた。
風が二人を巻いた。
十郎右衛門は長刀と脇差の鯉口を切り、即座に抜刀した。
「やー」
仙石は十郎右衛門の足を払いに来た。
瞬間、十郎右衛門は、飛び上がり長刀を仙石の頭に振り落した。
ガチ、仙石に受けられた。
「ぎゃー」
十郎右衛門の持った脇差が、仙石の右腕を刺していた。
「皆の者、奴らを一人残らずひっ捕らえろ」中川が叫んだ。
「御用だ、御用だ」
仙石と用心棒たちがすぐに縄をかけられた。
残りの同心たちは、再び船に乗り込んで行った。
‘ザブーン’
‘ザブーン’
「戸部」
十郎右衛門は、船に乗り込もうとした戸部に大声でいった。
「船から海に飛び込んで逃げたやつがいる。すぐに船を出してひっ捕らえろ」
「承知しました」
戸部は、松元たちと乗ってきた船に戻って、唐船に向かった。
■八話 敗北
「坂部殿、仙石が舌をかみ切りました」中川が息を切らせながらいった。
「なんと 」
十郎右衛門は中川の後について仙石のところに行った。縄をかけられた仙石の口から真っ赤な血が流れ出ていた。
「仙石太郎治」十郎右衛門は肩を大きくゆすった。
「絶命しております」そばにいた同心が悔しそうにいった。
一刻ほどで山代屋たちは捕えられ、長崎奉行所の牢に入れられた。奉行所はよし乃屋の女将たちも調べ始めた。
毎日、奉行所の与力の山代屋への尋問に十郎右衛門は立ち会った。
五日ほど過ぎても白状しないため、奉行は石抱(いしだき)を許可した。
「山代屋、関与している幕閣は誰だ。言わぬか」
「知りません」
「もう一段積め」
牢番二人が、三段目の石(長さ三尺90cm、幅一尺30cm、厚さ三寸9cm、重さは十二貫45kg)を運んできた。
「申し上げます」声を振り絞っていったとたん、気を失ってしまった。
中川は老中に捕縛した男たちの一部始終の証言の報告と処分についての伺いの文を送った。
江戸城では、文を受け取った老中の松平信明は薩摩藩家老の調所広郷を呼んで、抜け荷について詰問したが、薩摩藩としては仙石太郎治が数年前に脱藩していたので追っ手を放っていたなどとの受け答えで、一向にらちが明かないで日が過ぎた。
二十日ほど過ぎたころ、将軍の家斉から松平信明は呼び出された。
「今回の抜け荷の件は、関係していた薩摩藩士は脱藩していたとのこと、よって、薩摩は無関係なので取り調べは無用。また、隠居の田沼が関係していたとの話は噂の域を出しっていない」
信明は平伏して承知しましたと答えた。
家斉が去ると(家斉に嫁いだ薩摩藩主島重豪の娘の茂姫、今では御台所の広大院を使ってお上を動かしたな。薩摩藩と田沼とのつながりもこれで追及できなくなったか)と悔しがった。
長崎奉行の中川に捕縛した男たちの処分について、山代屋の主人、番頭、福田及び唐人たちは斬首、山代屋の親族は遠島を命じる文が届いた。
その後すぐに赤塚から十郎右衛門へ文が届いた。
「長崎の件、万事解決したのであとは長崎奉行に一切を任せて、至急江戸に帰ってくるように」と書かれていた。
「まだ大物が残っているではないか」十郎右衛門は天井を仰いだ。
よし乃屋で奉行中川忠英、高木作右衛門たち町年寄三人が、十郎右衛門を床の前に座らせ酒を酌み交わせていた。
「坂部殿、お疲れであった」
「中川様、残念でござる」と悔しそうに十郎右衛門がいった。
「上の命令ではやむおえん」中川がいった。
「冗談じゃありません。中川様、それでいいんですか」
「いいも悪いもない、幕閣の命じゃ。坂部殿、がんこだのう」
「がんこではありません、悪いやつを懲らしめたいだけです。幕閣たちも情けない」
町年寄たちは大声の二人を驚き顔を向けた。
小牧がいつの間にか部屋に入ってきて、十郎右衛門の前に座り酌をしていた。
「坂部様、お世話になりました」
「いやこちらこそ世話になった。まあ、一献いかがかな」と十郎右衛門は盃を飲み干し、盃を小牧の前に差し出した。
「お受けいたします」小牧は両手で盃を受け取った。
一刻ほど過ぎると、女将が芸者たちを連れて部屋に入ってきた。女たちは三味線をつま弾き、太鼓を打ち、唄を歌いそして踊りを舞った。
♪長崎の長崎の空にこだますおくんち太鼓 若い血潮を湧かすじゃないか 宵宮うれしや人目をさけて 忍び逢いする恋もある おくんちおくんちおくんち太鼓♪南国の南国の夢呼ぶ〜♪
「坂部様、踊りましょ」と小牧が十郎右衛門の手を取って前に出た。
それから一刻ほど十郎右衛門は踊ったり、唄ったりで疲れ、寝入ってしまった。
翌々日。
十郎右衛門、組頭の戸部順三衛門、小目付松元一郎太、徒目付片野四郎、藤井左衛門そして篠田友助の六人は、長崎を立ち陸路で門司に、その地から船で瀬戸内海を進め、大坂港へ着いた。そこからは陸路で京三条大橋、そして東海道に入った。五十一番目の石部、四十四番目石薬師、三十八番目岡崎、そして大雨の中二十九番目の濱松につき宿を取った。
その宿に大井川の川留の連絡が宿の主から十郎右衛門に伝えられた。
「坂部様、増水が四尺五寸になったそうで、川の渡渉が中止になりました」
二日後、
「何とかならんか」十郎右衛門が主にいった。
「水嵩はいま五尺なので、まだ無理です」
とうとう、掛川宿で三日間、足止めをくってしまった。
江戸に入ると桜のつぼみが開き始めていた。十郎右衛門は疲れていたにもかかわらず屋敷に戻るや、身なりを整えてすぐに登城した。
「坂部、今長崎から戻りました」
「坂部か、入れ」赤塚に笑顔はなかった。
「赤塚様、もう少しで黒幕を暴くことができましたのに、なぜ呼び戻されたのですか」
「今回のお前は仕事ではない、休みを取って勝手に長崎に行ったのだ」
「なんと仰せになられましたか、赤塚様もご承知だったはず」
「知らん、それよりもお前には後継ぎがいなかったな。早く娘御に婿を取らせよ」
「話を逸らせないでください」
赤塚は渋い顔をして煙管に煙草を詰めて火をつけた。
沈黙がしばらく時を流した。
「坂部、お前も年だ。そろそろ隠居したらどうだ」
「何ですって」
「もういい、下がれ」
十郎右衛門は目付部屋に戻って自席についた。
「ご苦労さまでした」と隣席の笹尾信一郎が小声でいった。
笹尾信一郎は浅尾道場での後輩で、若くして早くも目付になり、同期での出世頭との評判が高かった。
「何だっていうんだ、馬鹿にしやがって」
「坂部さん、今日どうですか」笹尾が親指と人差し指で円をつくって口に近づけていった。
「今日は疲れている、明日にしよう」
「わかりました」
馴染みの居酒屋「ひさご」に十郎右衛門と笹尾が玄関で女将に出迎えられ、部屋に案内された。部屋にはすでに南町の立山新之助が既に盃を手にしていた。
「坂部、ご苦労だったな」立山が笑顔でいった。
「本当だ、わざわざ休みを取って長崎くんだりまで行って、赤塚様の態度は一体なんだ」
十郎右衛門は、久しぶりの立山に向かって真顔で言った。
「まあ、早く座って飲め」と立山がちろりを取って自分の盃を十郎右衛門に渡した。
笹尾が手を打って女中を呼んで酒宴の支度を頼んだ。
「お前何も知らんのか」
「何のことだ」
「まだ私から何も話してませんので」と申し訳なさそうに笹尾が立山に向かっていった。
「勿体ぶってないで早く言え」
「ちょっと待て、まずはおぬしらの酒が来てからだ」
しばらくして、女将を先頭に酒や肴を運んできた。
「坂部様、お久しぶりです」といって女将は十郎右衛門に酌をしてから、立山そして笹尾とまわって、ごゆっくりといって部屋を出て行った。
「いいだろう、笹尾、お前から話してやれ。俺より詳しいだろう」
「はい」笹尾は持っていた盃を置いた。
「山代屋は薩摩藩の片棒を担いで、抜け荷をしていました。薩摩藩が唐の国へ注文して、その荷を山代屋たちが売りさばくという構図になっています。その莫大な利益の一部は、田沼様に盆暮れに薩摩藩や山代屋たちから付け届けられていました。田沼様はそれをもとに幕閣を抱き込み、側用人の地位を得ることができたようです。当然、田沼様は抜け荷の首謀は薩摩藩であることを存じていたはずです。抜け荷の物は、主に漢方薬で、売薬を藩の産業奨励の柱としている富山藩の製薬店や薬種業者に売っています。富山藩もおそらくその漢方薬は抜け荷によるものだと知っているでしょう」
笹尾は盃に酒を注ぎ、飲みほしてから話を続けた。
十郎右衛門は、笹尾を凝視していた。立山は、味噌田楽を口にほおばった。
「坂部さん、御上の御台所様をご存知ですか」
「あっ」
「御台所様は、島津家の娘御の茂姫様です。また、今もって田沼様の息のかかった老中がいます」
「わかった、もういい」十郎右衛門の顔がさらに赤くなっていた。
「これ以上、坂部さんに探索されると彼らにとって都合が悪くなるので、赤塚様に圧力がかかったのです」
「だから、俺に隠居しろといったのか」
「お前を隠居させれば、赤塚様の今の身分は安泰のようだ」
「なんだと」
「お前もついていないな」
「坂部さん、ここは娘さんに婿を取って隠居するのが坂部家のためです」
笹尾が説得した。
「お前の家は旗本だから、また婿はそれなりに出世するからよいではないか。俺の家は代々御家人だから与力止まり、お前たちがうらやましい限りだ」と顔に赤みを帯びた立山がいった。
「そういえば、坂部さんがお世話になった長崎奉行の中川様が勘定奉行になられるとの噂です」と笹尾がいった。
「栄転か。それはよかったな」十郎衛門の言葉に力はなかった。
「坂部、早く上のいうことを聞いて、隠居しないとどうなるかわからんぞ。俺に息子がいたら坂部の婿にさせるんだが」立山は無念そうにいった。
「そうですよ、蟄居なんてなったら大変です」笹尾が盃を持っていった。
「早く帰って、奥方に相談してみろ」
「冗談じゃない。それじゃあ殺された菅沼や越部が浮かばれん」十郎右衛門は涙ぐんでいった。
立山と笹尾は俯いた。
しばらくの沈黙を破って、立山がいった。
「じゃあ、お前は一体どうするつもりなんだ」
「分からん」
「分からんですむか。一歩間違えば、坂部家はみな路頭に迷うんだぞ」
「うっ」十郎右衛門が咽んだ。
「しっかりしてください」笹尾も涙を浮かべていった。
「坂部、まずは隠居しろ。隠居したら好きなようにしたらいい」
「立山さん、好きなようにしろといっても公儀の怒りに触れるようなことをしたら元の木阿弥になりますよ」
「そうだな、罰せられるようなことをする前に奥方たちと縁を切れ」と立山がいった。
「その時は、坂部さんにできる限り協力させてもらいますよ」と笹尾が覚悟した様子を見せた。
「坂部、俺もだ」
「二人ともかたじけない」といって十郎右衛門は袖で目頭をぬぐった。
「坂部、決して焦るなよ」
「わかった」
これで話は切れた。
■最終話
一日の休みあけ、十郎右衛門は登城するやすぐに赤塚に面談した。
「赤塚様、某、娘に婿を取りましたら隠居します」
「そうか、決心してくれたか」
「婿ですが、どなたかお心当たりありませんでしょうか」
「そうだな、しばらく考えさせてくれ」といって、赤塚は腕を組んだ。
十郎右衛門はよろしくお願いいたしますといって部屋を出た。
それからの十郎右衛門の登城は、三日に一度になり、たいした仕事も与えられずにのんびりした毎日を送っていた。
十郎右衛門、翌年に還暦を迎える齢になっていた。
長崎から帰ってきて一か月も過ぎたころ、目付部屋に激震が走った。中川の後に長崎奉行になった松平泰英が自害した。英吉利(イギリス)船が奉行所の制止にもかかわらず、長崎港に入港してしまったことに対しての引責によるものとの噂が流れた。
その二日後、十郎右衛門は笹尾からその話を聞いた。
「坂部様、赤塚様がお呼びです」と城坊主が十郎右衛門を呼びに来た。
「坂部、若年寄の水野忠成様がお呼びだ。すぐに行け」
文化三年に松平信明が老中になり、若年寄に水野忠成がなっていた。
城坊主に水野の部屋に案内された。
「坂部、お前は以前松前に露西亜船が来た時、露西亜人と折衝したことがあるな。最近では、勝手に長崎に行って阿蘭陀人や唐人との抜け荷の探索をしていたとのことだが、まことか」
「はい、その通りでございます」
「近頃、我が国を属国とせしめんため、虎視眈々とねらっておる。長崎では阿蘭陀船と騙され英吉利の船を入港させてしまい、奉行の松平泰英が自刃しおった。隣国の清では、英吉利から無理やり買わされた阿片なるもので国が亡びるのではないかとの噂も耳に入ってきている。つい先日は阿蘭陀商館一行の帰りに商館長が不審な死を遂げたとの報告が入った。坂部、すぐに長崎に行ってもらいたい」
「長崎には何をしに行けと仰せなのですか。今まで長崎にいてもう少しで抜け荷の大物を捕まえることができたのに、それをやめて戻って来いといわれたのは一体どなたですか」
「時は急変している。長崎奉行の自害や特に阿蘭陀商館長の不審死は、薩摩藩が絡んでいるようだ。また、後ろに英吉利がついているようだ。抜け荷より大きな問題をはらんでいる。そこで薩摩藩や英吉利の動向をお前に探ってもらいたい」
「お断りいたします。そのような重大な任務を某は果たすことはできません」
(なんで長崎にいたときにやりたいようにやらせてくれなかったんだ)
「そんなことを言わず受けてくれ。この任務はおぬししかできないのだ」
「今更そのような無理難題を言われても困ります」
「これは老中松平信明様の命令だ。明日登城して、命をうけよ。分かったな」
水野は声を荒げた。
(また、おどしか)
こんな勝手な人事に怒り心頭であったが、十郎右衛門は坂部家の安泰を考え命を受けざるを得なかった。
翌日、松平信明たち老中列席の中、十郎右衛門は長崎奉行を命じられた。
城内の桜が、満開に咲き誇っていた。
(完)
沢藤南湘(ペンネーム)