【章立て】
第4回 「六話 見えない敵」
■六話 見えない敵
「お帰りなさいませ。お風呂にしますか」
いやと言って、十郎右衛門は、稽古着に着替え、長刀と脇差を差して、庭に降りた。
「ヤアー、ヤアー」二刀流の型を半刻ほど繰り返すと体中から湯気が立ち上ってきた。
(この辺で終わりとするか)
「とみ、風呂に入るぞ」と大声でいった。
十郎右衛門が風呂から出て着替えをして、夕餉の膳が用意されている部屋に入った。
「だんなさま、どうかなされましたか」
椀に飯をもって十郎右衛門の膳に置くといった。
「菅沼がやられた、明日通夜に行く」
「菅沼様が・・」
とみが声を上げた。
菅沼の通夜には武士だけでなく町民も多く参列していた。
十郎右衛門は弔問客を目で追って、立山を探した。
「坂部、何をきょろきょろしているんだ」
肩をたたかれた十郎右衛門が振り返ると立山がいた。
「驚かすな、お前を探していたんだ」
「何か用か」
十郎右衛門は周りに気を配りながらいった。
「どうも我々の行動をいつも近場で見張っている輩がいるようだ」
「俺もそう思っているんだが、どいつか分からん」
「そこで、表坊主から調べようと思っている」
「そうか。俺は他の方から探ってみよう」
五つの鐘が打たれ始めた。
翌日の昼過ぎ。
「坂部様、小山田様がお呼びです」表坊主の声が障子戸を挟んで聞こえた。
【江戸城内において剃髪・法服で雑役に従事する者を坊主といい、同胞頭支配の中奥で種々の雑事を担当する奥坊主と表座敷を管理し大名や旗本の雑事を担当した二十俵二人扶持の表坊主、また御三家や溜詰大名担当の数寄屋頭支配の数寄屋坊主、そして寺社奉行支配の紅葉山坊主がおり、格式はいずれも御目見以下。表坊主の職務はここに登場する給仕・案内係、太鼓係、清掃管理の座敷係、屏風を保管した屏風係、小道具係、防火担当の火番等がある。特に火番は表坊主頭(四十俵二人扶持)となる出世コースで、権勢があったようだ】
昨日、新しく十郎右衛門の部下になった同心の清村助三郎に示し合わせ通り同心溜を通るとき、十郎右衛門は二度ほど咳をした。
しばらくすると、同心溜の戸が開き、清村が周りをうかがいながら音を立てずに出てきて、小山田の部屋に向かった。
(ここなら見えまい)廊下の曲がり角でそっと小山田の部屋の前に源信が座っているのを見据えた。
(あいつはいつまでいるのか。やはり部屋の中の話をうかがっているのか)
(素性を探りに行ってみるか)清村は、一旦同心溜に戻った。
十郎右衛門が小山田の部屋を出たときには、すでに源信はその場を去った。
十郎右衛門が仕事部屋に戻ってから一刻半ほど過ぎ、仕事の終わりの太鼓が鳴ったので、帰り支度を始めた。
「坂部様、ちょっとよろしいでしょうか」清村が、他の連中に気を使いながら小声でいって、十郎右衛門の前に座った。
「何かわかったか」十郎右衛門は片付けの手をとめた。
「あの坊主、源信という名です。先ほど、坂部様と小山田様の話を障子戸腰にずうっと聞いていました」
「やはりそうか」
「源信は、かなり阿漕なことをしているという噂をあちこちから聞きました。外様の薩長からもかなりの金銭をもらっているようです。また、奥坊主にも通じていて始末が悪いと思われます」
「わかった。もう少し探ってくれ。くれぐれも気をつけてな」
頷いて、清村は部屋を出て行った。
(どうしたものか)十郎右衛門は煙管にたばこを詰め、一服吸って周りを見回したところ部屋の入り口近くに座している赤塚久之助だけが残って仕事をしていた。
その赤塚に別れを告げて、十郎右衛門は帰途に就いた。
屋敷に戻るや否や、裃を脱ぎ、稽古着に着替えて素振りを半刻ほど続け、風呂に入り、膳の前に座した。
「あなた、どうかされましたか」とみは疲れた十郎右衛門の顔をうかがいながらいった。
「なんでもない」
湯漬けを飲み込むように食べ終わった十郎右衛門は、不機嫌そうに答えた。
「そうですか。くれぐれもお気を付けくださいね」
「心配するな。もう寝る」
数日後。町奉行所から大川からあげた土佐衛門が清村らしいと連絡が入ったので、すぐに十郎右衛門は大川端の現場に向かった。
清村の検死結果は、前から一太刀を浴びせられ、出血多量によるものであった。
翌日、いつもより早く登城してたまっている仕事を処理して、表坊主を呼んだ。
やはり、源信が来た。
「小山田様に会いに行きたいと伝えてくれ」
源信が返事をしてすぐに部屋を出て行った。
半刻ほど経って、源信が戻ってきた。
「今ならご都合がよいとのことです」
「わかった」
廊下を渡っているとき、十郎右衛門は庭の楓が真っ赤に染まっていたことに気付いた。
(もうこんな時節になったか。早く、下手人を捕らえなければみな浮かばれぬわ。源信め、今に見ておれ)
障子越しに、源信がいった。
「坂部様、参りました」
「入るがよい」
十郎右衛門は、部屋に入った。
「何の用だ」
「たいしたことではありません」といって、十郎右衛門が答えすぐに入口の方に向きを変え障子戸を開けた。
そこに座していた源信は瞬きもできずに十郎右衛門を見据えた。
「源信、いったい何をしておる」
しばらくの間、源信は、頭を下げたまま身動きせずにただ黙っていた。
「もういい、去れ」
源信の後ろの姿を見てから、戸を閉め、小山田に向かっていった。
「お騒がせしました。今回の一連の件ですが敵に我々の近くの身近な人間が関与しているのではないかと」
「それで、源信を疑ったわけか。坂部、この件から手を引けと申したはずだが」
はいと頷き小山田の目を見つめた。
「これ以上、犠牲者を出すわけにいかん。もうお前に手下をつけることができぬ。この件はもう終わりだ、分かったな。戻れ」
十郎右衛門は立山新之助が非番の時を見はからって、立山の屋敷をたずね、これからの手立ての相談をした。
十郎右衛門の話を聞き終わった後、立山はいった。
「某は表だっての動きができないので、信頼できる岡っ引をお前が手先に使えるようしてやろう」
「それはかたじけない」
十郎右衛門は、途方に暮れていた心にかすかな明かりを見出すことができた。
翌日。朝五つ、屋敷に岡っ引きの弥太郎が訪ねてきた。
とみが自ら弥太郎を客間に通して、十郎右衛門が来るのを待つように伝えて部屋を出て行った後、すぐに十郎右衛門が入ってきていった。
「おぬしが弥太郎か」
「へえ」
(なんて胡散臭そうな男だ。身なりはみすぼらしいだけでなく臭い)
「おまえの仕事だが・・」
「立山様から詳細は聞いています。坂部様の命に従うように言われています」
しばらくの間、十郎右衛門は源信の下城の後の動きを探る手はずを弥太郎に教えてから、女中を呼びつけ、二言三言小声で何かを命じた。
「おまえは独り身か。住まいはどこか」
「へえ、じんべい長屋に、あっし一人で住んでます」
とみが部屋に入ってきて、十郎右衛門に支度ができたと伝えた。
「弥太郎、風呂に入っていけ」
弥太郎は驚きながらも渋々、とみが案内する風呂場に向かった。
弥太郎は数日の間、十郎右衛門の前に姿を現していなかった。
十郎右衛門も多くの雑用を処理するのに忙しく、あの一件を調べることができない状態にあった。
(最近、仕事が増えてきたな。同僚の連中は今まで通りに下城の太鼓とともに帰るのに、なぜ俺だけが・・)
一刻ほど残って、十郎右衛門は帰りの途についた。
空には三日月がはっきりと浮かんで見えた。提灯を持った草履取を前に、後ろに槍持、挟箱持を従え、大名屋敷の塀の角を曲がった時、黒い影がわずかに動いたのを十郎右衛門は見逃さなかった。
「下がれ」十郎右衛門は草履取にいった。槍持ちが十郎右衛門の後ろについた。
「お前も下がっていろ」
黒装束が見えてきたときには刀が上段に構え、猛然と走ってきた。十間ほどに迫ってきたときには、十郎右衛門は素早く二刀を抜き、腰を落とした。
(忍びか)
すぐに十郎右衛門は半身によけた。左肩一寸ほど近くを敵の刃が空を切った。敵が前のめりになったところの背中をめがけて十郎右衛門は上段に構えなおした長刀を振り下ろしたが、前転を二回ほどして、走り去った。
弥太郎が、夜訪ねてきた。
「源信が時々、隠居の田沼様の屋敷を訪れていますぜ。また、田村の野郎も屋敷の中に入っているのには驚きだ」
「そうか」といって、十郎右衛門はしばらく腕を組んだまま目をつぶった。
寛政六年もひと月を残すばかりになった師走の朔日(ついたち)、非番の十郎右衛門へ立山から文が届いた。
「十数年前、田沼は側用人になるために老中たちに多額の賂を配っている。その金の出所が山代屋からのものだった。その金が主に抜荷によって稼いだものだと側用人になってから田沼は知らされた。田沼は取り締まりの役人の頭に山代屋の抜荷に寛大になるよう、山代屋に賂を配るように命じた。田沼は、山代屋の抜荷を暴こうとする者は左遷させた。そして、田沼の派閥が確固たるものとなった。しかし、定信様の出現によって、田沼は隠居させられ、表向きは派閥は解消したように見えたが、いまだ田沼に懐柔されていた者が、今でも一部の役職に留まっていることは否めない。このままおぬしひとりでこの件を調べ、解決するのは無理だ。定信様が抜擢した北町奉行小田切様に話を持っていこうと思う。小田切様は、定信様がとった改革を推進されている幕閣とも通じているので、悪いようにはならないだろう」と書かれていた。
(これは難儀だ)しばらく目を閉じた。
しばらくして、筆を執り、小田切様に話すこと承諾と抜荷の様子を教えてほしい旨をしたためた。
半刻(一時間)ほどで、戻ってきた若党が持ってきた立山の文には、
「この山代屋の抜荷には、後ろ盾に大名が絡んでいるとの噂があるが、確たる証拠はないようだ。主に支那を相手に金銀銅を売り、高麗人参、壺、書籍、絵画などを買っている。
また、小田切様に後日連絡するから、それまでは深入りせずに、またくれぐれも気をつけるように」と書かれていた。
やっと寝付いた十郎右衛門は、聞きなれない音に目を覚ました。
(なにごとか)立ち上がり、行燈に火をつけるや否や鴨居にかけてある槍を引き寄せ、天井を突いた。手ごたえがあった。血が天井にしみてきた。槍を天井から抜いた。敵は槍先を外していた。
「曲者だ」と叫んだ時、左足から五寸ほど離れた床から刃が突きあがった。
(あぶない)すぐに槍を床に刺した。
「ギャー」かすかな悲鳴が発せられたが、やはりすぐに逃げられてしまった。
戸を蹴って、庭に出た。
「曲者だ。であえ、であえ」
用人の阿部主計と若党の小六が鷹の羽紋がついた提灯を掲げ、十郎右衛門のそばについた。
「殿、おけがは」
「だいじょうぶだ。曲者は二人だ。二人とも傷をおっている。小六、敵を追うぞ。主計、後を頼む」
十郎右衛門は槍を小六に渡した。小刀と大刀を腰に差し、主計から提灯を受け取るや否や門めがけて走った。
門を出て屋敷の塀に沿って速足で下を見ながら血痕を探し、見つけた。
「道はまっすぐだ。この痕を追うぞ」
四半刻ほどたって、一人がもう一人を抱えるように肩を貸しながら歩いている黒装束たちを三十間先にとらえた。
「小六、走るぞ」
追いつきざまに「お前らだれに頼まれた」とどなりながら、黒装束の前に大刀を抜いて躍り出た。
黒装束たちは驚いた。肩を貸していていた者が、深手をおっているものを遠ざけて抜刀した時、後ろから声がした。
「坂部、運の強いやつだが、もうこれまでだ」
十郎右衛門は驚きながらも小刀を抜き、大刀は黒装束から離さずに後ろに首を振った。
「おぬしは、田村徳次郎か」
「もう我々の邪魔はさせぬ」田村が抜刀した。田村の全身に殺気が溢れ、剣は異常な鋭さを秘めていた。
闇の中の空気の流れが止まった。
田村が十郎右衛門に撃ち込んできた。それをかわし、十郎右衛門は反撃した。
しばらくの間、お互いの撃ち込みが続いた。田村は身体を鞭のようにしならせながら斬り込んでくる。十郎右衛門は押されていた。十郎右衛門は手傷を負った。
(手ごわい。このままではやられる)
左手首の傷口から、血が滴り落ちているのに気づき、開き直った。すっかり冷静さを取り戻した十郎右衛門は構えを立て直して、相手を凝視した。
踏み込んできた相手の剣を小刀でかわしざま十郎右衛門の剣が田村の肩先を斬り裂いた。
(かなりの深手のはずだ)
しかし、田村は素早く剣をひき、1間ほど後ずさりした。
十郎右衛門は二刀での中段の構えを取った。
暗闇の中に相手の身体が躍り上がって、すさまじい速さで大刀を振り下ろしてきた。
十郎右衛門は身体をわずかに沈め、右に飛んだ。剣先が左肩をかすったが、同時に田村の片腕を切り落としていた。剣を握った腕が暗闇に舞い上がり、田村の身体は地面にたたきつけられた。
冬にもかかわらず、十郎右衛門の顔から汗が吹き流れ肩で息をして、しばらくの間、田村の亡骸の前に立ちすくんだ。
田村徳次郎の死体は、一味の手によって、闇から闇に葬られた。また、北町奉行所では、評判の悪かった田村は出奔したことにして事件として取り扱わなかった。
半月後。
目付頭の小山田は若年寄立花種周に呼ばれ、遠国奉行への異動を命じられた。
小山田の異動は出世街道を歩みだしたものと評判になった。将来は、勘定奉行化、江戸町奉行かと皆から羨望視された。
小山田に代わって、立花は赤塚助次郎に目付頭の役を命じた。
赤塚がどんな人間かを調べるために、十郎右衛門は久しぶりに書棚から埃をかぶった武家年鑑を取り出した。ついでに小山田の載っている頁をめくった。
(小家柄が松平家に近い。しかし、目付頭になったのは小山田より数年遅れているな。おっ、小山田は元田沼派だったのか。もしかすると)十郎右衛門が唸った。
それから十日ほど経った城内でのこと。
十郎右衛門は赤塚から呼ばれた。
「坂部、今までの仕事で問題のあったものについて説明せよ」
十郎右衛門は、田村や山代屋そして幕閣にも抜荷で稼いだ金を賂として貰っている輩がいるらしい旨を話し、それを探索していたら、それとは関係ない多く仕事が来たといった。
「赤塚様、うちの同心や目付がその探索をしていたために殺されました。何とかこの事件を解明しとうございます」
赤塚は十郎右衛門から聞いた抜荷の件について詳しく若年寄立花種周に話した。
「なに、幕閣が命じたとでもいうのか。許せん、赤塚思う存分やれ。老中たちにも伝えておくから、確実な証拠をつかめ。わかったな」
十郎右衛門は赤塚に呼ばれた。すでに源信は赤塚の命でお役御免となっており、新顔の坊主が案内に来た。
「坂部、ところで、抜け荷の件で長崎に探索に行ってもらえぬか」
「承知しました」
「では、組頭の戸部と徒目付それと小目付も連れて行け」
「はっ」
(戸部は頼りになる組頭だ、ありがたい)
「いつ発つか」
「明後日でも」
「長崎奉行の中川殿にこのたびの役目を書状に書いておくので明日にでも取りに来い」
翌日。
赤塚のところに書状を取りに行った。
「坂部、若年寄立花様に圧力がかかった、老中の誰かにこの件に関しては深追いするなといってきたそうだ」
「なんと。本当ですか」
「立花さまがいっている」
「どうすればよいですか」
「坂部、正式には出張の手続きはとることができん。しばらく休みを取って長崎に遊びに行くということで行ってもらえないか。金は何とか工面する」
<六話完>
沢藤南湘(ペンネーム)