【章立て】
「一話 書院番士」、「二話 降格」、「三話 抜擢」
■一話 書院番士
安永元年(1773年)の初春。冬に耐えてきた府内の梅の木々に花が咲き始めていた。
旗本坂部十郎右衛門、二十五歳は、書院番の泊り番の仕事を終え、瓦葺の白亜の土塀の続く道を若党、槍持ち、草履取、そして挟み箱持ち四人を従えて、屋敷に着いた。若党がご主人様のお帰りと門に向かって叫んだ。物見窓から顔を出した門番は、急いで長屋門の両開き扉を開けた。安堵した十郎右衛門は、五百坪ほどある敷地の奥南側建つ母屋に入った。妻の富子が玄関に迎えでていた。
寝間に入り、富子に手伝わせて、十郎右衛門は肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)が組み合わさった長裃を脱ぎ、小袖と羽織に着替えて居間に行き、みそ汁と漬物をおかずに朝餉を取った。
「富子、明日の朝番も登城するぞ」
「明日はお休みでしたのに」
「休みだったのだが、番頭の青山様からのお呼び出しがあったのだ」
富子は、空いた十郎右衛門の椀に飯を盛った。
湯をかけ、十郎右衛門はあっという間に流し込んでしまった。
「良いお話ですか」
「分からん、一寝むりする」
富子は急いで布団を敷きに席を立った。
十郎右衛門は、寛延元年(1748年)、徒組頭の父田沢信吾とふさの次男として生まれた。信吾は、御目見以下の御家人で役高は百五十俵三人扶持、役務は作事方や小普請、江戸城の諸門の修復、寺院修復、堀浚などの土木建築工事や編集事業を手伝う書物御用そして、暦・測量御用などの要員の取りまとめ役であった。信吾は、学問に励み、昇進することに生きがいを感じていた。
この年、西国は大虫害によって米や麦等が大打撃を受けた。そして数年の間、百姓たちは大飢饉により飢えとの戦いであった。信吾の役高も、百俵に減らされ、家計のやりくりは苦しかった。そのような時代に育った十郎右衛門、背丈五尺(百五十センチ)、体重は十二貫(四十五キロ)と貧相な体形であったが、手先が器用で、大工や左官工事をこなし、周りに人間から重宝されていた。ただ、正義感が強く、だれに対しても正しいと思ったことは曲げずに処するので、人間関係を損ねることが多かった。そんな十郎右衛門に遊びや呑みに行こうと声をかける人間は数少なかった。
二十二歳、十郎右衛門に転機が来た。 坂部家から養子縁組の話がきたのだ。坂部家は、将軍に謁見できる御目見の旗本で富子の父親半之助は、書院番勤めであった。旗本と言っても三百俵取りと役高は低かったが、十郎右衛門の父の徒組頭役高の倍以上であった。
幸運を掴んだ十郎右衛門に周りからねたみや嫉妬を買った。旗本は、三河時代から戦場で主君の軍旗を守った武士団をさし、徳川家家臣が中心となっていた。
富子と祝言を挙げた数か月後、半之助は、隠居した。
十郎右衛門は、書院番の役職をあまりにも早く得、自分でも信じられなかった。しばらくの間は、夢の中にいるようであった。五百坪の敷地内には、十郎右衛門たちが居住する母屋と使用人の住む平長屋がある。便所、風呂、そして井戸は二つずつあった。使用人は、門番、槍持ち、中間、若党、草履取、用人、下働きの女中たち十人が坂部家で働いていた。
書院番士といえば小姓番組と並び合わせられ両番筋と言われ、旗本・御家人のなかでは、いちばん毛並みの良い家でなければなれなかった。そして、他の役職と異なり、出世の道が開かれている。 うまくいけば、大名クラスにもなれる可能性があった。番方と呼ばれ軍事家臣団で、若年寄配下では、ほかに新番、小十人組、火付盗賊改があり、また老中配下では、大番、旗奉行、槍奉行があった。老中は国政を担当し、老中につぐ地位の若年寄は、旗本や御家人の支配を中心とした政務を担当していた。
その書院番は、四組によって構成されていた。一組は、御目見以上の旗本からなる番士五十名と御目見以下の御家人による与力十騎、同心二十名の構成からなる。番頭は、その組の指揮官である。勤めは、朝番・夕番・泊番があり、白書院の北の詰所に駐在した。
大番と同じく将軍の旗本部隊に属し、他の足軽組等を付属した上で、備内の騎馬隊として運用されるが、敵勢への攻撃を主任務とする大番と異なり、書院番は将軍の身を守る防御任務を主とする。
十郎右衛門は、書院番士として勤め始めてから、仕事人間で、残業を嫌がらずにこなした。また、遊び事は一切せずに、毎日が城と屋敷の往復で、真面目過ぎるほどの性格、楽しみは、屋敷に帰ってからの興味を持っている算学の書物を読むことと非番の時の剣術の稽古をするぐらいであった。
関流の有馬頼ゆき(久留米の藩主)の『拾璣算法』を特に好んで何度も繰り返し読んでいた。この本には点竄術(字句を直すことで,方程式の諸項を消去・加筆するさまを表現したもの)や円理の諸公式など、それまで関流の重要機密であった高等な算法の数々の問題と結果が記載されていた。
剣術の稽古は、物心ついた時から通っている北辰一刀流の浅場道場に汗を流しに行った。
一方、職場の連中のほとんどが、親の世襲の書院番士のためか、お坊ちゃんで遊び好きであった。その連中から、勤め始めた時には、吉原に行こうとたびたび誘われた。十郎右衛門は、最初は用事があると言っていたが、最近ではその言い訳が面倒になって、「某は、男色が趣味」と言って、断り続けていた。
そんな気持ち悪い十郎右衛門に仕事以外の話をする者は、何人もいなくなった。
坂部家は、堅物の十郎右衛門にさらなる立身出世を望み、半之助は、隠居後、酒を断ち、半之助の妻は、毎日、百度参り、女房の富子も、水垢離を欠かさなかった。
十郎右衛門は、半之助に上司の屋敷に毎日ご機嫌伺いをするように、繰り返し言われていたが、そこまでして出世をしたいとは思っていなかったので、二人は気まずい関係になっていた。
支度を終えた十郎右衛門に富子が、
「旦那様」と言って、長刀を渡した。
「いってくるぞ」
「行ってらっしゃいませ」
春の青空に陽の光が白い壁を輝かせたお城の天守閣がそびえ建っていた。
控えの間にお城坊主が十郎右衛門を案内した。
すでに、部屋には、四人が詰めていた。その中に、浅場道場の同門の二人、山下忠友と菅沼新三郎の二人が座していた。
十郎右衛門は、山下の後ろに座らせられた。後から、やはり同門の小納戸の立山新之助が案内されてきた。 お城坊主が、全員そろったのを確認して席を立った。
しばらくして、先ほどのお城坊主が、若年寄の安藤信成を導いてきた。そして、十郎右衛門は、徒頭を命じられた。一方、立山は町奉行所、山下は使番、菅沼は目付に異動となった。
「坂部、出世だな」
菅沼が十郎右衛門に声をかけた
「お前も目付とは栄転だ」
十郎右衛門が答えた。
「山下と立山も誘って、飲みに行こう」
菅沼がいって二人に声をかけに行った。
そして、行きつけの居酒屋‘弥助’に四人が集まりそれぞれの夢を語り続けた。
十年過ぎた。将軍は、家重から十代目の家治に移っていた。十郎右衛門、三十六歳になり、使番に昇進していた。山下忠友は目付に異動していた。
使番とは、治績動静の視察、幕府の上使として城の受け取りの立会や京大阪等要地の巡視などの業務であった。
この年、明和四年(1767年)田沼意次は、側用人の地位に着いた。意次は、商業を重んじる政策を取るため商人たちを優遇した。株仲間を積極的に公認し、独占権を保証しその見返りとして、運上金を徴収した。さらに、幕府による専売制を推進し、銅座や鉄座などを設置した。貿易面では、金銀を輸入し、銅や俵物(海産物)などを輸出し、長崎貿易の拡大を図った。それにより、商人たちは、多くの財を成し、その一部を意次たち幕閣にお礼として、渡し続けていた。これにより、農民たちに貧富の差が広がり、貧農の多くは江戸に流れ込んできた。
使番になっても、年を重ねても相も変わらず、十郎右衛門は、曲がったことに対しては、上司であろうと他の職場の人間であろうと、徹底的に議論を吹っ掛けていた。
半之助は、いつかしっぺ返しがあるのではと心配で十郎右衛門に夕餉を終えた後に言った。
「十郎右衛門、田沼様が、御側用人につかれた。土産でも持って、お屋敷に行って来なさい」
「父上、某にはそのようなご機嫌取りなど、出来ませんしやりません」
「いつも出世したいといっているのに、なぜ儂の言うことを聞けんのか」
「父上だって、付け届けなどやったことがないのに」
「儂のように出世できなくてもよいのか。後悔するぞ」
「そのようなことで出世できなくても後悔なんていたしません」
「おまえは、出世の意味がまだ分からんのか?」
「お上にたくさん奉公するために出世するのです」
「そうだ、だからどんどん出世してお上に多く奉公できる地位を射止めよ」
「私は、言いたくないことを忠言したりして、お上のために・・・」
「もっと上を見ろ、最高の奉公は、家老になることだ」
「そんな無理無体なことを」
といって、十郎右衛門は顔をそむけた。
(困ったものじゃ)半之助は、十郎右衛門のこれ以上の出世を諦め、孫を待つことにした。
そのため、半之助は、富子の顔を見るたびに「子はまだか」と催促した。
半之助の妻は、その執拗さのため、暫し半之助をとがめた。
■二話 降格
十郎右衛門の噂が意次の耳に入った。意次の取り巻きたちは、十郎右衛門が危険人物だといって、遠ざけるようにと上申した。
数日後、十郎右衛門は若年寄呼ばれ、徒組頭の役を命ぜられた。
「富子、降格だ。また徒組頭だ」
こわばった顔をした十郎右衛門が、出迎えた富子に腰から抜いた長刀を渡しながら言った。
「・・・・・・さあ、早くお着替えを」
一瞬言葉に詰まった富子が、振り絞る声で言った。
裃を脱ぎ、小袖の着流しに着替えを終えた十郎右衛門は居間に入った。味噌田楽、海苔そして香物が載った箱膳と酒が用意されていた。
重苦しい雰囲気の中で、皆黙って、食した。
皆が食べ終わった時、十郎右衛門は、盃をおいて言った。
「某だけが、降格だ」
「そうですか」
富子は、感情を表に出すのを抑えた。 半之助は、お茶を床に置いて、言った。
「十郎右衛門、そなたには、何度も言ったぞ。変な正義感は、出世の妨げじゃと。お目見以下に降格とは前代未聞じゃ、ご先祖様に申し訳が立たん」
「父上、私は間違ったことはしておりませぬ」
「そんな言い訳が通る時代か。田沼様に嫌われるとは」
「あなた、もう一本つけました」 富子が、十郎右衛門の盃に注いだ。
「降格といっても、お徒組頭ではありませんか。そのうち良いこともありますよ」半之助の妻が言った。
書院番から昇格して徒頭になるのが、順当な出世コースであったが、十郎右衛門は徒頭の部下の徒組頭を命ぜられた。その徒組の主要な任務は、江戸城内の警備であった。十郎右衛門は、そのうちの御膳場の警固という地味な仕事であった。十郎右衛門は登城しない日は、天気の良い日は、浅場道場に通うか近くの池で釣りをして時間をつぶし、雨の日は、家にこもって、読書にいそしんだ。
そんな十郎右衛門を心配して、坂部家では、十郎右衛門の出世を祈念して、父親は、酒を断ち、半之助の妻は、毎日、百度参り、富子は、水垢離を続けていた。
■三話 抜擢
暮れ六ツ(六時)、御三卿(田安、清水、一橋)のひとり、一橋治済(ひとつばしはるさだ)の屋敷では、御三家の水戸、尾張、紀州藩の江戸詰家老たちが集まっていた。
治済が、口火を切った。
「江戸界隈では、打ち毀しが朝夕と関係なしに多発している。ご政道が危なくなってきておる。ここに集まっていただいたのは、この状況下で如何にご政道を守るか。水戸の治保様は、どのようなお考えかな」
水戸の家老が、言った。
「わが殿は、田沼殿に代わる器量の者は、松平定信、酒井忠貫、戸田氏教様の三人しかいないと言われております」
治済は、頷いた。
「どうであろうか、尾張の宗睦様のお考えは」
「殿は、松平定信様の白川藩の治政をかっております」
「治貞様は、如何仰せか」
紀州の家老が答えた。
「殿は、定信様の白川藩の数多くの実績は存じておりますが、将軍の縁者は難しかろうと言われており、酒井忠貫殿を押したらいかがと申されております」
「治貞様の言われるのも分かるが、幕府転覆かという時期に、過去の習いに従うこともありますまい。定信殿は、幼少期より聡明で知られており、そしていずれは第十代将軍家治の後継と目されていた。しかし、田沼を‘賄賂の権現’と批判したため存在を疎まれており、意次の権勢を恐れた一橋家当主の治済によって、久松松平家の庶流の白河藩第二代藩主松平定邦の養子とされてしまった。意次に怨みやつらみから、今までの田沼の政治を一変させてくれるだろう」
治済は、一息ついて続けた。
「定信殿自らも幕閣入りを狙って、意次に賄賂を贈っていたようだ。うまくいくかもわからん。まずは、定信殿に老中になってもらうよう大老の井伊直幸殿に進言したい旨、御三家の殿へ書に致すので、しばらくお待ちくだされ」
と言って、治済は席を立った。
しばらくすると、女中たちが、酒と肴を運んできた。
数日後の四ツ(朝十時)、江戸城本丸御用部屋では、水野忠友、鳥居忠意、 牧野貞長、 阿部正倫たち、老中四人が集まっていた。そこに、田沼意次はいなかった。
水野忠友が口火を切った。
「御三家、御三卿の方々から、松平定信様を老中に殿上申が出ていますが、各々方のご意見をお聞きしたい」
鳥居が答えた。
「将軍の縁者を幕政に参与させてはいけないとの家重様の上意があります。ここは、断固拒否しなければなりませんぞ」
「鳥居殿の言われるとおりでござる。お断り申され」
牧野が、続いた。
「某、大奥の滝川様に根回しをいたそう」
幕閣の田沼派によって、御三家らの定信擁立工作は頓挫してしまったが、翌年の天明七(1787年)年の五月二十日、飢饉による米の値上がりに対しての憤懣のため、江戸府内のあちらこちらで、打ちこわしが始まった。
意次は、鎮静化するために二十万両を使い、暴徒たちを鎮静化させた。
しかし、幼い将軍家斉は、御三家の言うことを聞いて、意次たちに命じた。
「将軍の御膝元の江戸でなんということだ。威厳の失墜、お前たちは、責任を取れ」
と怒り心頭、田沼派の首領格、御側御用取次の本郷泰行(やすあき)と横田準松(のりとし)を解任、その三日後、田沼意次も、責任を取らされ罷免された。
そして、定信が、老中に抜擢されすぐに筆頭になった。定信は、今まで意次の重商主義を重農主義へと転換を図る事を急いだ。
定信、三十歳。
(意次の息のかかった連中を一掃しなければ)定信は、御三家、御三卿に根回しをした。さらに田沼派の連中たちへ御庭番を放ち、様子を探らせた。
夜も静まったころ、報告が届いた。定信は、縁に出た。
「殿様、老中松平康福(やすよし)様は老中を二十五年、自分の意見を主張することもないし、持ってもいないようです。ただ、温厚なので、世間から慕われているようです」
「ご苦労であった」
翌日には、次々と御庭番から、定信に報告された。
「水野様は、田沼様から養子を迎えたりして、昇進を重ねて行ったようです。勝手掛をお勤めの時、極度に財政を悪化させています」
「牧野様は、今のところ悪いうわさはありません」
定信は、熟慮を重ねて、やっと行動に出る性格であったため、結論を出すには時間がかかった。
御三家にも相談して、将軍補佐役としての座を得るように画策し、意外に早い時期に首座なることができ、それを機会に老中たちを次々と罷免した。
そして、新老中として、松平信明、松平乗完(のりさだ)、本田忠壽(ただかず)、戸田氏教(うじのり)が就任した。
天明八年(1788年)十郎右衛門が徒組頭の役職についてから十年が経った。相も変わらず過度の潔癖症や正義感のため、上司であろうとだれであろうと正しいと思ったら、意を曲げないため、以前以上に、上司から疎んじられていた。
(わしは、この性格のままでは、隠居するまで御目見以下の番士のままか、せいぜい進物番ぐらいで終わるのであろうか。それもやむをえまい)と十郎右衛門は、達観しているかのように見えたが、酒を飲むと相手方に愚痴やうっぷんを晴らすような言動が多くなり、酒の席では、十郎右衛門から皆が遠ざかりたがるようになった。
家でも酒の飲み方が荒くなってきて、富子を困らせていた。
非番の日、十郎右衛門は、寝苦しい夜からやっと寝付いたと思ったら、二日酔いのむかつきと朝からの蝉の鳴き声ですぐに目を覚ました。
ため息をついた。(気分をかえて、釣りでも行くか)
起き上がって、煙管に煙草をつめた時、
「旦那様、お城からお使いの方が見えました」
富子の声が襖の向こうから聞こえた。
「何用だと」
「すぐに徒頭が登城するようにと言って帰られました。すぐにお支度を」
「分かった」
「お食事はどうしますか」
「いらん、すぐに登城する」
徒頭から、勘定奉行の久世広民が広間で待っていると伝えられた。
(一体何だろう)十郎右衛門が考える間もなく、
坊主が、すぐに十郎右衛門を久世の所に案内した。
「坂部十郎右衛門でございます」
「おぬしが坂部か」
「坂部十郎右衛門、勘定役を命ずる」
十郎右衛門は、はっはと床をこするほど低頭した。
十郎右衛門の役職の勘定役は、勝手方勘定奉行の配下である徴税および領地支配の中でも経済面に関する事務処理を担当する「取箇方」の勘定として配属され、直属の上司は、勘定組頭の広田朔太郎、そして勘定奉行は、久世広民であった。
十郎右衛門は、すぐに友人の立山に会いに行った。立山は、十郎右衛門の栄転祝いにと、山下と菅沼に声をかけ、隅田川のほとりの船宿で宴を設けた。
しばらくたつと、女将が用意できましたと菅沼に伝えに来た後、菅沼が立ち上がっていった。
「みんな、これから屋根船に乗って、大花火の見学と行くぞ」
船着き場の船の中に四人が腰をおろすとすぐに、辰巳の芸者が、屋根船の鴨居にちょいと手をかけて、膝から先に仰向けになってすべりこむように十郎右衛門たちのところに入ってきた。
「粋だね」菅沼が芸者に向かっていった。
十郎右衛門の不機嫌そうな顔を見ながら菅沼が盃に酒を注いでいった。
「今日は、この坂部の出世祝いだ。おねえさん、よろしく」
「はい、わかりました。あたしは千代といいます。よろしゅうお願いします。さあ、坂部様、一杯いかがですか」
十郎右衛門は、盃を持った。
「だんな、そんなしかめ面しないでくださいよ」
「坂部、飲め」
立山が笑いながらいった。
「坂部様はまじめな方」千代は十郎右衛門の朱に染まった顔を見た。
「千代さん、何か面白い話をしてもらえまいか」菅沼が、話を変えた。
「そうですね、昔の話になりますが。あの紀伊国屋文左衛門さんがこの隅田川で盃流しという遊びをやられたそうです。数千の朱塗りの盃を船から流したとのことです。その後、これをまねて、学者柳屋長右衛さんの息子鯉三郎さんが茶道具屋の娘さんを娶る前にやろうとしたところそれを知った長右衛さんが間一髪止めに入ったそうです」
「なぜ止めたのですか」山下が聞いた。
「それは大変お金がかかるだけでなく、御上から目をつけられたら大変なことになると思ったからではないでしょうか」
体中赤く染まった十郎右衛門は頷いた。
ドーン、ドーン、ドーン
「花火大会が始まりました」と千代がいいながら、体の向きかえて障子戸を開けた。
夏の夜空に大輪の花が咲き、川面にもそれが映し出された。
<三話完>
沢藤南湘(ペンネーム)