外国での演奏と新聞掲載
自分たちの訪イは新聞でも記事になった。田舎の行事なのにその新聞は全国紙だという。
思いがけなく実現したイタリアでのコーラスだが、振りかえって見ると、40年前のシンガポールでの琴の演奏、数年前の台湾でのマンドリン演奏もある。しかもそれらは全部、現地の新聞に掲載されている。

(残念ながら、写真には自分は写っていない)
シンガポールでは国立劇場での演奏で、屋外ステージで非常に暑かったことが思い出される。毎年恒例となっていた「日本文化の夕べ」に参加したもので、その時は文部省の次官を表敬訪問した。

(1976.9.12付 シンガポール新聞=前列右端)
1976年10月30日付『週刊三井東圧』(自分の投稿記事)
「視野を遮っていた大きな緞帳が上がると、一斉にまぶしいライトが目に入ってきた。客席のざわめきがかなりの人の存在を感じさせた。南国シンガポールの国立劇場のステージには振り袖姿の女性たちが琴を前にして緊張して座っている。今夜はシンガポールの「日本伝統文化の夜」である。
(中略)三井東圧の筝曲部の先生が幅広く筝曲の演奏活動をしておられる関係で、我々もその「文化親善団」の一員としてシンガポールへ演奏旅行することになったわけである。
(中略)半分屋外になり、後方は芝生になっているこの国立劇場は、昼間のリハーサルの時は30度を軽く越えた南国の真夏の外気が直接肌に感じられ、汗びっしょりになったが、いざ本番となるとライトを浴びているにもかかわらず暑さを感じない。
(中略)最初の曲は「荒城の月」。ゆったりとした調子の中、ソプラノ琴が澄んだ音色でメロディーを奏でている。
(中略)「シンガポーラ」や「ラササヤン」というシンガポールの民謡を演奏すると、もう劇場全体が割れんばかりの興奮に陥り、手拍子まで入って。ステージと客席が一体となった。(後略)
台湾でのマンドリン演奏は30回近くになるが最初の演奏会は市長の歓迎を受けた。病院で慰問演奏したら新聞に掲載された。

(2009.5.14 病院慰問を伝える「台湾自由」=演奏者中央)

(2011.12.3 桃米の紙教堂=左から2番目)
(新聞記事抜粋)
日本曼陀林合奏團員中的落合英實,在日本311大地震前一天,在埔里,且與台灣友人約定要來台演奏交流,結果隔天發生大地震,落合「受困」埔里數日無法返回日本。
(日本マンドリン団員の落合英實氏は日本の311大地震の前日、埔里にいて、台湾の友人と音楽交流の約束を交わしていたが、次の日に大地震が発生し、数日間、日本に帰国できなかった。) そして今度のイタリアでのコーラス。地元の市長を表敬訪問したら、翌日の新聞に掲載されていた。不思議なことに、海外での自分の音楽活動(琴、マンドリン、歌)は全て現地の新聞が取り上げてくれたことになる。
余談だが、インドネシア駐在中は行きつけの中華料理レストランではステージにあがり、バンドをバックによく「昴」を歌ったものだ。
これも余談だが、2年程前、日本統治下の台湾で蓬莱米の改良を成し遂げた日本人技師の胸像がその技師の故郷の高校と関係した福岡県農業試験所に寄贈されたが、その時、寄贈先の選定から寄贈の実施までのすべてを自分が行った。その寄贈式においては台湾の代表(名代)として寄贈のセレモニーに出席するとともに祝辞を述べたが、その時も地元の新聞に写真入りで掲載されている。外国の代表として、公の機関の式典に出席するとは考えてもみなかった。ましてそれが新聞報道されるなどとは・・・。(この時は前福岡県知事にも協力いただいた。)

(2013.10.8 大分日報=左から2番目)
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