荘厳な教会に響きわたる歌声 (2)
投稿者:落合 英実
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「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」と「君が代」
時には宗教曲を歌うものの、自分たちの日ごろの練習曲は当然のことながらオペラに由来するものがほとんど。公演で歌うものは曲が長いことと聴衆の理解を得るために日本語となるが、公演にいたらない曲はオリジナルの言語である。従ってイタリア語の曲が多くなる。とりわけヴェルディ作曲の「NABUCCO」の「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」は自分たちの得意とする曲。斉唱が多いこの曲はどのパートを歌っても歌を楽しむことができ、機会あるごとにステージで歌っている。イタリアの「第2国歌」とも言われるこの曲はイタリアではポピュラーな曲で、イタリアで歌うにはうってつけである。もちろん、歌詞はイタリア語。意味は十分には理解できないものの、機械的に丸暗記した歌詞は滞ることなく歌える曲だ。

(プログラム)
この曲がイタリアの国歌に準ずるものということからコラボで歌うことになったが、それならば日本の国歌も歌ってほしいということになり、「君が代」を歌うことになった。アジア圏ばかりか日本国内でもこの歌を歌うことはほとんどない。それでも、日本人として、外国で活動する場合は日本人という意識が働くのは当然であり、自ずと背筋が伸びるのは自分ばかりではないだろう。
この「君が代」は1000年近くも前の平安時代の作という。平安時代の古今和歌集の中の一首で、内容は「恋文」がオリジナルらしい。当時の貴族社会は源氏物語に代表されるような、惚れた腫れたの色恋にうつつをぬかす世界。その点ではオペラの世界と同じで、日々遊びに明け暮れ、まともに仕事をしない貴族の関心事は浮世の世界だったようだ。そんな時代の恋歌を国歌にした明治の代は粋なものだったのかもしれない。

(Coro Monza合唱団)
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深夜の演奏会
イタリアの夜は遅く始まり、遅く終わる。今回は3回の公演であったが、開演はいずれも午後9時。だから終演はほぼ深夜。そのうち2回は平日の夜だったのでやむを得ないだろうが、それにしても遅すぎる。おまけに夕食が遅い国だから、出演する自分たちの食事も演奏会後となった。最初の演奏会後に行われた歓迎会は24:00から始まったが、家族も含め参加者全員、時間を気にすることなく飲み食い、しゃべり、三々五々に歌を歌っていた。最後の演奏会においては、演奏が終わるとスタンディングオベンションで教会は割れんばかりの拍手、夜もすっかり更けているのに聴衆は帰りを急ぐ気配もない。ミラノ郊外とはいえ、車で1時間以上もミラノから離れた田舎なのにと思ってしまう。雲の子を散らすように演奏会終了とともに客が帰る日本の演奏会とは全く違う。これも聴衆マナーのひとつだろうか?在ミラノの日本総領事もステージに上がり、自分の横に立ち、一緒にその興奮を楽しんでいた。外交官という職業柄なのか日伊の文化交流を喜んでいた。

(最後のステージでのセレモニーでは団長として記念品を受け取る役も。) |
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Amicoたち
最初の演奏会では、初めて一堂に会するということで深夜12時からの歓迎会となった。ほとんどが夫人同伴だから、100人位の歓迎会だ。観光旅行の契約確認などで親しくなっていた旅行社のMis. Angelaも来ていた。妙齢の女性かなと期待を膨らませて会えることを楽しみにしていたが、彼女はベテランの域に差し掛かった女性であった。マナーにのっとり、衆目の中でハグをすると周りから拍手が起こった。同行の日本人仲間は驚いていた。「落合さん、知り合いなのかな?どうやって知り合ったのかな?」という感じで、男性たちの羨望の視線が背中に感じられた。

(Angela)
歓迎会にはルイージという少年も来ていて、同じてテーブルに座っていた。祖父が合唱団のメンバーということで祖母も一緒に参加していた。イタリア人のメンバーはほとんど英語を話せないのに10歳前後のその男の子は英語をしゃべることが出来、いろいろ話をした。「僕もイタリア語を勉強しているので、君は日本語を勉強してね」と話すと素直に応じてくれた。きっと、将来日本語を勉強するに違いない。その後演奏会には全部聞きに来ていたので、個人的に写真撮影と録音を頼むことが出来、十分に音と写真の記録を取ることが出来た。後日分かったことであるが、演奏会の司会者が母親だという。もちろん、ルイージはその母親に自分のことを話したようで、最後の演奏会の時に、司会という重責を果たした母親が団長の自分にハグをしてきた、ステージ上で。スリムな美人の母親であった。
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(ルイージと祖父母) (ルイージの母である司会者と) |
話が脇道のそれてしまったが、歌はまさしく万国共通である。自分の隠れた特技は、一呼吸おけば初めての歌でもまあ大丈夫。イタリアの曲でも特殊な節回しでなければそつなく歌える。その特技を使って、酒の勢いのもとイタリア人の中に一人で加わって歌うと大いに受けたのはもちろんである。一緒に歌ったパヴァロッティ風貌のテノールのSgr. C Pirovanoとはいっぺんに打ち解けてしまった。彼とはその後「パヴァロッティ」と呼んで親しくなった。

Milanoのパヴァロッティ(?)と
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(肩組み合って) (団長とパトロンと指揮者と) |
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Coro Brianza
1968年に設立したCoro Brianza合唱団は山岳合唱を得意とするが、その後ヨーロッパの合唱コンクールなどにも活躍の場を広げていて、優勝する等輝かしいキャリアーを誇っている。2015年にはミラノ万博の開幕式及び閉幕式でも抜擢されて合唱を披露している。
Il Coro Brianza nasce a Missaglia, nella Brianza Orientale, durante l'Ottobre del 1968 quando un gruppo di amici decide di concretizzare la comune passione per il canto di montagna.(Coro Brianza was established in Missaglia, Eastern Brianza, during October 1968, when a group of friends decided to carry out the common passion for the mountain singing.)

L’anno 2015 è stato un anno “speciale” per l’Italia e per il Coro Brianza che ha avuto l’onore di essere scelto tra i cori che hanno partecipato e cantato alla cerimonia di apertura e di chiusura di l’esposizione Universale tenutasi a Milano dal 1 Maggio al 31 Ottobre 2015; una partecipazione ed un riconoscimento che ci rende orgogliosi come Italiani e come Coristi del Coro Brianza.(Coro Brianza who had the honor to be chosen among the choirs who participated at the opening and closing ceremony of the Universal exhibition held in Milan from May the 1st till October the 31th , 2015 ; participation and recognition makes us proud as Italians and as Choristers of Choir Brianza .) |
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野田オペラ合唱団
二期会を代表する声楽家夫妻が野田市に在住していることから、地元の病院経営者がスポンサーとなり、概ね2年に1回程度、フルオーケストラのオペラを開催していることから、その合唱を担当する合唱団として設立。これまでの演目は「カルメン」や「メリーウィドー」「こうもり」などを公演。

「カルメン」では時には密輸団(右手最上段の荷物を担いでいる)になって。
フルオーケストラのオペラ出演は素晴らしく、病み付きになる。メンバーには合唱歴が長い人もいればそうでもない人もいる。でも、声楽家の卵を除くと、「オペラやってます」と自信を持って言える人がほとんどいないのが実情で、普段の練習はあまり様にならない。若々しさもないので、なおさらだ。ところがステージがあるとそれなりに様になるもの。自信らしきものが芽生えてくるとステージが楽しくなるらしく、つい病み付きになるのはやむを得ない。オペラのメッカのイタリアへ演奏旅行に行くにあたって、「オペラ合唱団」と名乗っていいものかと気が引けたのは自分だけではなかったかもしれない。それでも、若い時にイタリアで研鑽を積んだという指導者が「イタリアの教会で歌いましょう。教会はいいですよ。」といわれるので、喜んで参加したが、正直、「いいのかなあ?」とみんな思ったに違いない。

時には町の紳士(右手の白いスーツ)となって。もちろん衣装は自分の体形に合わせてあつらえられたもの。
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