祖父の詠んだ明治の世(狂詩集「武奇陽集第二編」)
先ずは、岩国大竹工場の爆発事故で亡くなられた方に深甚なる哀悼を表すと共に負傷された方々の一日も早いご回復を祈ります。又工場長はじめ復旧に全力を傾けておられる皆様のご健闘を祈っております。
この様な中、私事を投稿する事には、内心忸怩たる思いがあります。しかし祖父が狂詩で詠んだ時代は、日露戦争を多大の犠牲を払いながら戦い抜き勝利を得た苦難と栄光の時代であり、明治人の力強さと明るさをそこに見出して元気を出して戴ければと思い、投稿した次第です。私は二年半前、拙文「村夫子の詠んだ狂詩「武奇陽集」」を、本ウエブサイトに投稿させて戴き藤岡、古川先輩等の方々から批評を戴きました。それは明治32年に私の祖父静間密(号武奇陽)が出版した「武奇陽集」と題す狂詩集の註解本を紹介するものでした。(本ウエブサイトに未だ記事が掲載されていますので参照下さい)私はこれに引き続き祖父が大正2年に出版した「武奇陽集第二編」の註解に取り掛かり、やっと出版の運びとすることが出来ました。前回と同様に、この註解本を紹介するものです。

祖父の著した狂詩集「武奇陽集」、「武奇陽集第二編」は、当時全国的にも読まれたようで、国会図書館を始め、山口県立図書館、岩国中央図書館、二,三の大学図書館等に所蔵され、時々神田や京都の古本屋にも出品されている。しかし今では読む人もなく図書館の棚の奥で埃にまみれて眠っている。私は、是非この「武奇陽集」、「武奇陽集第二編」を出来るだけ多くの人に読んで貰いたいと一念発起、定年退職後の足掛け十年掛けて読み下し、現代人にも読める様に注解本として刊行した。
「武奇陽集第二編」の時代は、日清戦争の勝利の後、大国ロシアと日露戦争を戦った苦難の時代であったが、長年の念願であった不平等条約を解消し、欧米列強に伍して一等国となった躍進の時代でもあった。しかし一方では、戦争の犠牲に対し勝ち得たものが少ないと国民が憤慨し、帝都に戒厳令が布かれる騒擾を起し、又貧富の格差の拡大により、幸徳秋水等を中心とする社会主義運動が起る。殖産興業の陰に、後に女工哀史で知られる悲劇等各種の矛盾が噴出した時代でもあった。そのような時代に書かれた「武奇陽集第二編」の狂詩のいくつかを紹介する。
日露開戦前年の明治36年、日本国情視察のため来日したロシア陸軍大臣、後のロシア満州軍総司令官となるクロパトキン(黒鳩公と当てる)が神戸の福原遊郭に突然現れ、二人の芸妓を招いたが、余りの美しさに茫然自失、涎を垂らすのみでとうとう鳩は、豆を啄ばまずに帰って行ったと笑っているが、当時の国民が彼の一挙手一投足を、緊張をもって見守っていた様子が窺える。
旅順攻防戦では、乃木大将率いる第三軍が、明治37年8月から開始した死力を尽くした第一、二、三次の総攻撃も失敗に終わり、その成り行き、延いては日本の運命は如何にと、全国民が固唾を呑んで注目していた中、意外にも203高地が陥落、明治38年1月1日には、旅順陥落との号外の声に驚き、正月の祝いと重なって国民が歓喜した様を詠っている。
旅順要塞ロシア軍司令官ステッセルは、その敢闘に対しドイツ皇帝から勲章を授かる等、世界中から称賛を受けたが、奮戦した部下達が捕虜となったのを見捨てるように、恥ずる様子もなく妻子と共に綺羅を飾って帰国してしまったのを皮肉っている。
戦い済んでポーツマス講和会議となるが、全権大使小村寿太郎は、礼砲の中出発したのであったが、条約締結後は売国奴の罵声の中ひっそりと帰国する。それに対して武奇陽は、笑って全権を迎えようではないかと呼びかけている。
一方富国強兵という官民の趨勢の中で、劣悪な環境で一日12時間以上の労働を強いられる紡績工場の女子工員の境遇に武奇陽は、憤慨しているが、女子工員が社会主義思想に染まっていくことを心配している。又開通して間もない鉄道線路で早くも自殺した人を取上げ、当時全国的に話題となり自殺者を増やしたと云う第一高等学校生藤村操の例等を引いて弔っている。
明治35年8月11日に起った錦川の大洪水を長詩で詠っている。錦川の水位は早朝益々上がり、名橋錦帯橋は無事だったが、その下流の臥龍橋が流失し川端の柳に引っ掛って水流を堰き止め、堤防が決壊した。武奇陽密の住んでいた岩国町錦見地区も胸迄浸かる大洪水となった。土手に面した十数軒が流され、その内一軒では、老いた姑の手を引いて流れる家の二階に逃れた嫁が、濁流の中に立つ樹の枝を思わず掴んで其の身は助かったが、姑は流され亡くなった。深く過ちを悔いている嫁を憐れんでいる。岩国町内では、この一人だけの犠牲者であったが上流、下流、島嶼を含め多数の犠牲者を出し農業も甚大な被害を受けた。岩国徴古館には、当日の写真が残っているが、筆者は暑い夏の日、写真が撮られたとみられる椎尾山に登って同じ位置から写真を撮った。水没地域には、民家が密集している。災害は忘れた頃にやって来るというが、昨年の東日本大震災、奈良、熊野地域で発生した大洪水を見る時、常に備えておくべきことと思った。
嘗ては一世を風靡した岩国縮は、玖珂の僧が苦心して丹後(京都府北部)で技術を修得して故郷に帰り伝えたという由来、高品質縮の開発の歴史を詳しく述べ、一部の悪徳業者の起こした品質問題の為に忽ち評判を落とした例を挙げて警告している。今玖珂地区を中心として岩国縮の復興運動があると聞くが、嘗ての名産品の復活を祈るものである。
武奇陽が岩国英国語学校で一緒に学んだ幼友達である日本の電気事業の父藤岡市助、帝国図書館初代館長で日本の図書館の父と云われる田中稲城等とは、老年に至るまで文通を交わしていた。田中稲城と交換した文書は、同志社大学竹林文庫に多数所蔵されている。稲城宛に武奇陽は、自分の死の五年前の大正8年中だけでも60余通の葉書を出しており、内容は全て七言絶句の狂詩で書かれている。その中には、大正7年市助と粟屋が病で亡くなり、古来生と死は同じことであると説かれているが、王羲之が「蘭亭序」で述べている様に、それは嘘で死は実に悲しいものだと詠っている。この様に、武奇陽始め当時の教養人は、事あるごとに、漢詩や狂詩で心境を伝え合っていた様である。
以上祖父の狂詩を紹介したが、お判りの様に日常の茶飯事、感慨を素直に吐露したもので、川柳、狂歌と異なり、句数に制限はないので複雑な内容、心境を詠う事が出来、親しみ易いものである。狂詩が絶えて久しい。最近では漢詩に親しみ吟詠を趣味とする方々も増えていると聞く。漢詩とは、難しい漢語が並ぶチンプンカンプンなものとの先入観を捨てて、是非一度読んでみて貰いたいものである。そこには現代人が知る機会もなくなった歴史の逸話、古典、昔話の他、明治のホットニュース、世情が満載され、思わず吹き出してしまう滑稽な落ちに満ちている。大災害や政治、経済の混迷、低迷に気力を失っている現代人が、明治人の活力を感じ取って、気力を取り戻して貰いたいと願っている。
拙著紹介
「武奇陽集」:A5版266頁 定価1000円
「武奇陽集第二編」:A5版350頁 定価1500円
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静間勇夫
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