武奇陽集―――明治の村夫子の詠んだ世相、感慨と諷刺
静間 密 原著 静間勇夫 註解
私の祖父静間密は、安政二年(1855)に岩国の下級武士の家に生まれた。明治四年開設された岩国英国語学所の一期生としてスティーブンス先生の下で学んだ。後に東芝創立者となる藤岡市助、初代帝室図書館長となる田中稲城等は、密と机を並べた学友であった。密は堺師範学校(現大阪教育大学)で学び、奈良県で教鞭をとったが、明治十九年親の看病という事で故郷に帰った。密三十一歳の時であった。
以後自宅に錦見算術学校を開くと共に岩国小学校の教導として子弟の教育に携わった。その傍ら、自宅を三花園と称し草花を愛で、奈良在住の頃より始めたと思われる狂詩に傾倒して、当時の中央詩壇に投稿すると共に、政治、社会の風刺、諧謔の記事や狂歌、狂詩を掲載し一世を風靡した雑誌「團々珍聞(まるまるちんもん)」に投稿するなどし、この世界ではかなりの名を成した。岩国地区では「虎渓講」という狂詩のサークルを主催している。
この密が自分の号である武奇陽を冠して、自作の狂詩集である「武奇陽集」を明治三十二年出版した。私は、この「武奇陽集」を五年がかりで読み下し、注解本をこの程刊行した。狂詩とは、漢詩の作法(押韻、平仄)に従いつつ、用いる漢語には、所謂和製漢語も用いて、風刺、諧謔を強調しているもので、一休禅師に始まり江戸時代、明治初期には全盛を極めたが、現今では全く顧みられなくなったものである。
この「武奇陽集」は、奈良在住の頃から明治二十年台、三十年初の間に作詩したものを収録してある。これを読んでみると、この時代の岩国、日本の様子、世相が生き生きと描写されていると思う。因みに今NHKの大河ドラマ司馬遼太郎の「坂の上の雲」が放送されているが、主人公の一人である秋山好古は、密より4歳年下で、貧乏氏族の子弟の常として学費の掛からぬ大坂の師範学校に入学して後陸軍士官学校に転じたというが、密と同世代の人である。「武奇陽集」の中から一部を抜粋して、本誌で紹介し読者諸氏にこの時代の様子を知って頂きたいと思う。
当時は、自由民権運動の華やかなりし時代で、各所で演説会が催されていた。弁士が悲憤慷慨して政府の施策を攻撃し、聴衆も切歯扼腕して激高した。その様子が描写されているが、その話の落ちは、弁士は実は借金に苦しみ取り立ての群れから逃げ隠れして、応対を細君に任せているのを目撃し、こんな人に国政を批判する資格がないと結んでいる。
又勤め人の話で、毎年昇格査定を受け、自分は今年も昇格から外れた。自分は昇格した人に比べてあらゆる点で優れていると一々数え上げて友人に不平を述べたところ、それを聞いた友人は、思わず噴飯した。それに釣られて自分も大笑いし、冷静に考え直すと、出勤も遅く、退社は早く、勤務中は作詩に耽ったりして、矢張り上司の見る眼は、正しかったという落ちである。現代の我々にも通じる厳しさが当時もあったものと見える。
銭湯の話では、当時の家では、各戸に風呂が無かったと見え、銭湯は毎日満員の盛況で湯船でお互いの肌が触れ合う程だと言う。権助(下男)は抜刀して、おさん(下女)は宝貝を薄布で隠しただけで客の背中を流すとある。小唄を唸る客、熱い、ぬるいと叫ぶ書生、足を滑らせ転んで泣き叫ぶ子供等当時の様子が手に取るようである。
錦川での納涼と思われる詩もある。川原一面に出店が出て色とりどりの灯篭をつけて人が群がっている。子供達の浴衣が汗臭く、女中達の白粉が臭い。余りの熱気に雑踏を抜ければ身をこがす蛍が飛んでいるという。錦川にも蛍が飛んでいたのだ。
そうした所でやっている居合い抜きの見世物の描写もある。今では寄席などで時々やっているが、そのままの口調で居合い抜きの男が傷薬を売りつける様子が目前に見るようだ。
圧巻は、吉香神社の臨時大祭と大畠の龍燈見物だ。
吉香神社は明治十八年旧藩居城跡に白山神社から移設され、現在ある絵馬堂(錦雲閣)は十八年、能舞台は二十二年に新設された。明治二十四年吉川経健男爵が子爵に昇爵され、維新に大功のあった経幹公に従三位が追贈された。この祝賀祭が挙行される事になったが、訪日中のロシア皇太子を津田巡査が襲った大津事件が起り、明治天皇をはじめ全国民が固唾を呑んだ大事件のため大祭も延期された。祭りが始まるや吉香神社は、旧岩国藩の各村々町々を挙げて祝賀一色になり人で溢れた。能舞台では、初日七番、二日目五番の能が演じられ、他に撃剣会や萩の正伝神楽舞が演じられた。通りには城下各町が出した山車が練り歩き、山車がぶつかって喧嘩騒動が起り、余りの喧騒に広島人が脳溢血で死亡したりした。岩国や由宇、柳井の小中学校生徒は、軽気球を上げたり、手製の地球儀や書画を出品して、吉川当主よりご褒美に岩国半紙を拝領し、記念写真撮影をしている。この時、この地方で電灯が始めて点された。神社内と鳥居に電灯が取り付けられ、交互に点滅し奇妙に早いと人々の驚きを書いている。この祭りは、五月下旬の農繁期の最中に挙行されたが、かくも盛大に岩国全域が参加して行われたことは、偏に旧藩主への感恩の表れだと結んでいる。
大畠の龍燈見物は旧正月の前日大晦日の夜に、大畠の沖に火の玉が現出するという噂を聞いて密と友人は朝岩国から旧山陽道の欽明路峠、玖珂を徒歩と人力車で向かい、祖生、伊陸、馬皿峠を経て柳井に入り大畠に夕刻着いている。大畠では、桑原さんという医者の家に集まり、美人の令姉妹の接待の下、恰も竜宮城に行ったような待遇を受けた。碁やカルタを遊びながら時を待ち、夜中火の玉を実見する。帰路は、人力車で瀬戸内沿いに由宇、通津を経て帰宅するまでを、鳴門の瀬戸の般若伝説を交えながら描いている。
こうした長詩を漢詩の作法に忠実に従いながら作詩しているのは驚きである。密の並々ならぬ力を如実に示している。
このような楽しく賑やかな詩題とは異なり、当時の漁村の貧しい生活の様子も描かれている。自分が収穫した魚は富者の食卓にのぼり、家では米を買う金がないと。明治文明開化の矛盾、流れに取り残された人々についても取り上げている。
その他、文明開化によりもたらされた新しい物、例えば石油ランプは、近々三十年で行灯や燭台に取って代わり、巻煙草は明治十年銀座で販売されたのが始まりだが、その頃の道楽書生が気取って街中で煙を吹かしていると嘆いている。鉄道もその頃全国的に敷設が進み、今は神戸にいるが明日は横浜だと汽車の早さに驚いている。ちなみに現山陽本線広島徳山間が開通したのは明治三十年、岩徳線はずっと遅れて昭和九年に開通した。まだ開発段階の飛行機も昇天車と呼んで取り上げている。
この時代の最大の事件は、明治二十七、八年の日清戦争である。戦勝を喜び、平壌会戦の玄武門一番乗りの原田上等兵や戦死しながらも喇叭を放さなかったという木口小平を賞讃しているが、彼等の功績について軍人の内で妬みに基づく足の引っ張り合いがあったことを皮肉っている。また日本をトンボに喩えて、東海の海の中で静かにしていたものが、近頃朝鮮、中国を屈服させ西洋列強の横暴を許さず、羽翼が次第に伸びて大陸に飛翔するようになった。しかし余り腰が伸びすぎて細い腰が折れるのを恐れると警鐘を鳴らしている。
以上のような新しい詩題以外に、中国古典、日本の神話、伝説、源氏物語、平家物語英雄豪傑等も題材にしており、密がこれらの古典にも通暁しており、又読者一般もこれに親しみ、それを踏まえた諧謔、風刺を楽しんでいた事が判る。それに引き換え現代人の知識、心の何と浅薄で貧しい事か。日本の伝統、東洋の文化にも出来るだけ親しむよう努め、日本文化の継承に努めていきたいものである。
最後に、この「武奇陽集」を読んで明治の人々の活気、岩国及び周辺の村々町々の住人の結びつきの強さを感じる。寂しくなった西岩国地区も何とかこの時代の何分の一でも活気を取り戻し、故郷岩国、わが町内を誇りに我々の子孫が思ってくれるよう知恵を絞らなければならないと思う。
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